足尾銅山の産業遺産の紹介

産業遺産の構成

1.生産施設(産銅施設と生産基盤)

産銅施設には採鉱、選鉱、製錬の生産工程と、それらを維持するための工場施設、鉱山全体の運営を担う経営分野の施設がありました。生産基盤としては、輸送、電力エネルギー、工業用水などを十分に確保できるよう諸施設を整えて、産銅施設を支えました。

生産施設(産銅施設と生産基盤)の詳細
項目 内容
1.採鉱施設
(詳細はページ下部「1.採鉱施設」の箇所をご覧ください。)
採鉱は鉱源から鉱石を採取し坑外に搬出する作業です。組織的な採掘のために設けた基幹坑道と、坑道や鉱源を掘り進める動力としたコンプレッサーや火薬庫など坑外の施設を含みます。
2.選鉱施設
(詳細はページ下部「2.選鉱施設」の箇所をご覧ください。)
選鉱とは、搬出した鉱石を有用な鉱石(精鉱)と廃石に物理的に選り分ける作業です。手選り作業に加えて、破砕機や峻別機の導入、浮遊選鉱法や重液選鉱法など、当時最新の機械や技術を取り入れて処理能力を増強させていきました。工場建屋内に各種機械が配置され、屋外にはシックナーなどが設置されました。明治期は小滝・本山・通洞にそれぞれ選鉱工場が設置されましたが、大正期に通洞に集約され閉山まで稼働しました。
3.製錬施設
(詳細はページ下部「3.製錬施設」の箇所をご覧ください。)
製錬とは、選鉱から送られてきた精鉱を高温で熔解して化学的に金属を取り出す作業です。足尾地域では、精鉱を粗銅に仕上げるまでの工程が行われました。製錬施設は小滝と本山に設置されましたが、明治30年に小滝は廃止されました。本山の製錬所では、明治初期から近代技術の導入が段階的に行われた結果、足尾式自熔製錬法の確立に至りました。昭和37年に完成した工場施設には、鉱石貯蔵施設、自熔炉や転炉・鋳造機を配置した工場、硫酸製造工場などが配置されました。
4.保守・製造関連施設
(詳細はページ下部「4.保守・製造関連施設」の箇所をご覧ください。)
銅山で使用する機械類の製作や修理を行う工場です。足尾銅山では、欧米からの輸入機械を使っていましたが、明治33年に間藤工場が設置され、ここで輸入機械をモデルに独自の改良を加えた各種機械を製造するようになりました。
5.経営関連施設
(詳細はページ下部「5.経営関連施設」の箇所をご覧ください。)
鉱山全体の運営を担う経営分野の施設で、鉱業所事務所、幹部や貴賓客に滞在する施設、従業員用の福利厚生施設が該当します。
6.輸送・通信施設
(詳細はページ下部「6.輸送・通信施設」の箇所をご覧ください。)
足尾銅山を支えた物流システムは、当初は近世街道を主要経路とし、馬車道や鉄骨橋梁(古河橋)の整備、簡易軌道、馬車鉄道、架空索道、足尾鉄道の開通まで、多様な方法が行われました。地表の軌道や道路のみならず地下や上空も利用して、立体的かつ複雑な物流ネットワークが形成されました。また、足尾銅山は、日本で民間初の私設電話が架設された場所であり、足尾銅山全域と関連施設を対象に独自の電話網が整備されました。
7.エネルギー施設
(詳細はページ下部「7.エネルギー施設」の箇所をご覧ください。)
生産部門に電力を供給する発電施設や送電施設です。足尾地域では水力発電所、冬季の電力不足を補う油力発電所、日光の細尾発電所から供給される電力を送電する変電所などが各所に作られ、電力供給システムを整えていきました。
8.工業用水施設
(詳細はページ下部「8.工業用水施設」の箇所をご覧ください。)
足尾銅山の水力発電、選鉱所、製錬所で使用する工業用水の取水・導水施設です。足尾地域においては、松木川・神子内川・庚申川の各上流部に取水口を設けて、諸施設まで導水しました。

2.環境対策施設

銅の生産に伴い発生した廃棄物は、ばい煙、廃水、ずり・廃石等に分けられます。廃棄物による周辺環境への影響を最小限に抑える解決策として設けた諸施設が、環境対策施設です。足尾地域には明治期以降から改良を重ねて廃水ネットワークが形成され、現在もその一部が使用されています。

環境対策施設の詳細
項目 内容
9.治山・砂防施設
(詳細はページ下部「9.治山・砂防施設」の箇所をご覧ください。)
治山・砂防施設は、荒廃した松木地区の土砂流出を防止するための施設です。砂防堰堤のほか、植樹地や砂防紀念碑もこれに含まれます。
10.浄水場
(詳細はページ下部「10.浄水場」の箇所をご覧ください。)
浄水場は、坑口や堆積場から浸透する水分や、採鉱・選鉱・製錬の全過程で排水される重金属類を含んだ有害な廃水を沈殿・中和し無害化する施設です。
11.堆積場
(詳細はページ下部「11.堆積場」の箇所をご覧ください。)
堆積場は、廃石、からみ、廃泥などの廃棄物を安全に管理するため、足尾地域に数多く設置されました。

3.生活施設

生活施設は、企業の従業員や鉱山労働者用の居住施設としての社宅、また銅山の発展による人口の増加に伴い整備された商店、保育施設や学校などの教育施設、劇場、教会、社寺などの娯楽及び信仰施設が含まれます。

生活施設の詳細
項目 内容
12.社宅
(詳細はページ下部「12.社宅」の箇所をご覧ください。)
古河幹部のための役宅、古河の従業員用社宅、労働者用の長屋などが含まれます。
13.生活・教育・文化施設
(詳細はページ下部「13.生活・教育・文化施設」の箇所をご覧ください。)
足尾銅山で働く就業者や足尾地域の住民が利用できる、商店(三養会)や劇場、学校・保育施設並びに、信仰のための施設です。

4.景観・鉱山都市遺跡

施設単位以外の面的に広がる産業遺産として、松木地区に顕著に認められる鉱害の痕跡並びにその対策を示す景観、及び鉱山都市の様相を明瞭に伝える遺跡があげられます。

景観・鉱山都市遺跡の詳細
項目 内容
14.景観
(詳細はページ下部「14.景観」の箇所をご覧ください。)
松木地区に顕著に認められる鉱害の痕跡並びにその対策を示す景観です。製錬所のばい煙で荒廃した景観(観測監視区域)と植樹により再生された部分が対比される景観、さらに鉱害対策の一環として整備された砂防施設があります。また、煙害と火災により移転した松木旧三村の集落跡も含まれます。
15.鉱山都市遺跡
(詳細はページ下部「15.鉱山都市遺跡」の箇所をご覧ください。)
足尾地域には、生産拠点を核とした地区をひとつの単位として都市が形成されました。小滝坑や本山坑の坑口周辺は、産銅施設とともに鉱山住宅が建設され、消滅した現在も住宅跡や地割が明瞭に残され、かつての生活空間の様相をまとまりよく伝えています。

足尾地域の産業遺産分布図

1.採鉱施設

通洞坑(国指定史跡)

カーブを描いた線路の先に通洞坑の入口が見えている写真

通洞坑は、足尾銅山の主要坑道である本山坑及び小滝坑を結ぶ坑道として、明治18年に開鑿が始まり明治29年に完成しました。開鑿にあたっては、さく岩機及びダイナマイトによる発破工法が用いられるなど、当時の最新技術が導入されました。「通洞」とは鉱山用語のひとつで、探鉱のほか運搬・排水・通気等の役割を担った鉱山の基幹となる坑道のことです。通洞坑の完成によって近代的な銅山開発が飛躍的に進み、産銅量の増加に大きく貢献しました。以後、昭和48年2月の閉山まで継続して使用されましたが、他の鉱山では採鉱の進展に伴いながら通洞が変遷を遂げているのに比べて大変特徴的であると言えます。閉山後の昭和55年に坑内を活用した観光施設である「足尾銅山観光」がオープンし、通洞坑の一部が公開されています。また、平成20年3月には日本を代表する銅山の象徴として貴重な遺跡であることから、坑口から167メートルの範囲が史跡に指定されました。

本山坑(国指定史跡)(注意)非公開

枯れた草木の間から見える赤いトタン屋根の本山坑を対岸から写した写真

本山坑は、足尾銅山にある3つの基幹坑道のうち最も古く、古河市兵衛による近代足尾銅山の本格的発展の契機となった坑道である。明治16年に江戸時代からあった坑道を再開発し、坑口前にある梨の老木にちなんで梨木坑と呼ばれていましたが、富鉱が有るようにと有木坑に改名されたといいます。その後、銅山の中心地をあらわす本山を代表する坑道の意味から、有木坑は本山坑と呼ばれました。開坑当初から複線軌道が敷設され、明治30年には小滝坑と貫通し、わが国初の電気機関車による坑内運搬が始まるなど、昭和48年の閉山まで基幹坑道としての役割を果たしました。現在は本山製錬所の廃水をポンプアップし中才浄水場へ送るため、廃水管が敷設されています。平成26年3月に国史跡に追加指定されました。

坑道の内部や敷地内では見学できません。

小滝坑跡(市指定史跡)(注意)非公開

道路横に赤いトラス橋、その奥に入り口が鉄の棒で封鎖されいている小滝坑跡の写真

明治18年に江戸時代からあった坑道を再開発したものです。明治24年に通洞坑、明治30年に本山坑と貫通しました。また明治40年には本山間の坑道開削で坑道延長が短縮され、これにより両拠点間の物資輸送が大幅に改善されました。大正9年に小滝選鉱所が通洞選鉱所に集約されるとともに出鉱は停止されましたが、その後も坑夫や資材の輸送口として使用され、大正14年からはガソリン機関車も使用されました。昭和29年に戦後の再建整備による小滝閉山となるまでの約70年間、大いに栄えました。

外観のみ望見可能です。坑道の内部や敷地内では見学できません。

本山動力所跡(国指定史跡)(注意)非公開

三角屋根平屋建てで、横に長く沢山の窓がある本山動力所跡の外観写真

本山動力所跡は、本山坑で使用する鑿岩機等の動力として圧縮空気を供給する施設です。大正3年に本山坑の坑口から北東約250メートルの出川左岸に設置されました。アメリカのインガーソルランド社製の大型コンプレッサーが2台設置され、圧縮空気の集中供給が行われました。それまでの小規模・低容量の坑内コンプレッサーから、坑外の大型コンプレッサーに転換したことで、圧縮空気の安定供給や大正期以降の採鉱工程の全面的な機械化に大きく貢献しました。その後、インガーソルランド社製の大型コンプレッサーが昭和5年に1台、昭和29年頃に小滝閉山に伴い小滝動力所から1台移設され、昭和48年の閉山時には4台のコンプレッサーがありましたが、現在はコンプレッサー2台が保管されています。平成26年3月に国史跡に追加指定されました。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

宇都野火薬庫跡(国指定史跡)(注意)非公開

緑の木々に囲まれた中に建っている、石造りで屋根が無く外壁だけが残っている宇都野火薬庫跡の写真

宇都野火薬庫は坑道開鑿のためのダイナマイト等の貯蔵庫で、明治45年に足尾銅山の主要な生産拠点のひとつである小滝地区宇都野の山中に建設されました。土塁で区画された4棟の並列する火薬類の貯蔵庫と、防火壁で仕切られた加工品貯蔵所によって構成され、石造の火薬庫3棟が明治45年、煉瓦造の火薬庫1棟が大正6年、防火壁及び加工品貯蔵所が昭和9年に造られました。建設にあたっては当時の法律に基づき、位置や構造などが厳重に規定され、現存する姿からもその影響を強く受けていることがわかります。その後、昭和29年に戦後の合理化による小滝坑の閉鎖に伴い宇都野火薬庫も廃止されましたが、それまで半世紀近くにわたり銅の産出を支え続けてきました。平成20年2月には、我が国の近代産業の発展を知る上で大変貴重な遺跡であることから、史跡に指定されました。

建物の内部や敷地内では見学できません。

2.選鉱施設

通洞選鉱所跡(稼働資産)(注意)非公開

山の麓に建っている通洞選鉱所全体を離れた場所から写した写真

選鉱所は、坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていました。本山、小滝、通洞の主要坑口にはそれぞれ選鉱所がありましたが、大正10年までに通洞選鉱所に集約されました。最新鋭の設備が配備され、金属鉱山の選鉱所のモデルとして国内外で高く評価されました。現在は、隣接するグラウンドや足尾バイパスから見ることができます。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

3.製錬施設

本山製錬所跡(国指定史跡)(注意)非公開

山のすぐそばに建っている2階建ての工場や円柱状のタンクのようなものが見える本山製錬所跡全体の外観写真

銅の産出量の増加に対応するため、明治17年に直利橋製錬分工場として開設されました。当時の先端技術を導入し、生産量が飛躍的に増加しましたが、同時に亜硫酸ガスの排出によって煙害問題も発生しました。その後、煙害克服のための技術改良が続けられ、昭和31年に「自溶製錬法」、「電気集塵法」、「接触脱硫法」を応用した脱硫技術を世界で初めて実用化し、亜硫酸ガスの完全回収に成功しました。現在、川の対岸の市道から全景を見ることができます。平成26年3月に国史跡に追加指定されました。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

4.保守・製造関連施設

古河鉱業間藤工場(稼働資産)(注意)非公開

道路に面し、広い駐車場の奥に建っている古河鉱業間藤工場の外観写真

古河鉱業間藤工場の前身は、明治24年に設置された足尾銅山工作課であり、土木・機械・電気の部門がありました。そのなかで、銅山で使用される機械類の製作・修理を行うため、明治33年に間藤工場が設立されました。工場では、輸入機械の保守・修理を通じて、日本の鉱山の実態に適合した新製品の開発・製造を行いましたが、注目されるのは、小型で軽便な手持ち式の足尾式小型鑿岩機を大正3年に開発したことです。さらに鑿岩機の市販を目指して大正6年に鑿岩機工場を新設。昭和17年に工作課の機械部門が独立し、足尾製作所となりました。その後、一般産業機械部門、鑿岩機部門、機械加工部門、鍛造部門の移転や分社化に伴い、特殊鋳物工場へと機能を転化していきました。平成15年に古河機械金属株式会社より鋳造部門が分社化し古河キャステック株式会社が設立され、現在に至っています。

外観のみ望見可能です。工場の内部や敷地内では見学できません。

5.経営関連施設

古河掛水倶楽部(国登録有形文化財)

2階建て洋風建築の建物で、石畳の通路が正面入り口に延び、建物前には大きな松の木が生えている古河掛水倶楽部の外観写真

古河掛水倶楽部は、足尾鉱業事務所跡の東側に隣接する足尾鉱業所の迎賓・集会施設です。明治32年建設とされる旧館と、大正元年建設の本館および球技室で構成され、国産第一号とされるビリヤード台や大正13年のドイツ・バルトール・ベルリン社製のピアノも残されています。設計者は判明していませんが、特に本館は迎賓館にふさわしく、和洋を問わず主要室の造りの良さが目立っています。保存状態もよく、本館の建設時に旧館の一部が改築され、さらに昭和20年には本館の洗面所や浴室、便所などが改造されているものの、全体としては内外部とも創建時の面影を良く留めています。掛水の足尾鉱業事務所が失われてしまっている現在、足尾銅山のかつての中枢部にあってその最盛期を物語る貴重な建物です。平成18年には国登録有形文化財になりました。現在も古河機械金属株式会社の福利厚生施設として使用されるとともに、冬期間を除き土曜・日曜日・祝日には一般公開されています。

旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫(国登録有形文化財)(注意)非公開

レンガ造り2階建て建物で、正面中央に入口、2階部分に窓がある旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫の外観写真

かつての足尾鉱業事務所(掛水)の跡地はグラウンドになっていますが、その一郭に残されているのが鉱業事務所の付属施設として明治40年12月に建設された旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫です。煉瓦造総2階建、切妻鉄板葺・平入り造りで、外壁はイギリス積、四隅に白い石材を帯状に配した付け柱を設け、両側面と正面中央に妻壁を立ち上げた重厚な建物となっています。単なる倉庫建築とは思えないほどの本格的な洋風建築であり、かつては隣接する木造2階建の華麗な鉱業事務所本家と対照的な存在感を誇っていたことが推察されるとともに、この建物が鉱業事務所にとって重要な位置を占めていたことが分かります。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

6.輸送・通信施設

古河橋(国重要文化財)

奥に山が見える手前に設置されているアーチ状の古河橋の写真

明治23年に建設されたドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋です。工場であらかじめリベット接合を用いて製作した部材を、現場においてはボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられています。古河橋は、近代最初期に整備された足尾銅山の主要施設のうちほぼ完存する唯一の遺構です。また、19世紀後期に世界各地で事業を展開したハーコート社が、施工の簡易性を追求して開発した現場継手にボルトを用いる橋梁のなかで、原位置に残るわが国現存最古の遺構です。足尾銅山近代化の歴史とわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要であることから、平成26年1月に国重要文化財に指定されました。

外観のみ望見可能です。橋への立ち入りは禁止。

わたらせ渓谷鐵道【旧足尾鉄道】(国登録有形文化財)

青色のから茶色の1両編成の電車が出てきている橋梁足尾鉄道第二渡良瀬川橋梁の写真

産銅量の増加に伴う輸送力の増強のため、古河鉱業を中心に足尾鉄道が敷設されました。大正元年には桐生~足尾間が、大正3年には足尾~足尾本山間が開通し、大正7年には国有化されました。閉山以降も、輸入鉱石や硫酸の輸送に使用されましたが、昭和62年の国鉄民営化とともに貨物列車が廃止されました。現在は、わたらせ渓谷鐵道として桐生~間藤間が運行されています。平成21年には、通洞駅や足尾駅など12件の鉄道施設が、国登録有形文化財になっています。

橋梁及びトンネルは外観のみ望見可能です。

有越鉄索塔(注意)非公開

緑の木々が生えている山の斜面に建っている四角柱の塔で、上にいくにつれて柱が少し細くなっている有越鉄索塔の写真

索道(鉄索)は、物資や廃石、廃泥の運搬に用いられた輸送用のロープウエーです。明治23年の細尾索道架設以降、数多くの索道が架けられました。有越鉄索塔は、通洞選鉱所から廃泥を堆積場へ運搬するための索道の支柱として、昭和14年に建てられました。昭和35年に簀子橋堆積場が完成しトラック輸送に変わったことにより使命を終えました。

外観のみ望見可能です。内部や敷地内では見学できません。

旧足尾銅山電話交換所(国登録有形文化財)

建物周りがフェンスと垣根で囲まれ、緑色の屋根、ベージュ色の外壁をした旧足尾銅山電話交換所の写真

足尾銅山の坑内外に電話が架設されたのは明治19年です。明治36年の『足尾第五回内国勧業博覧会出品解説書』には、下間藤、本山、小滝、通洞、渡良瀬、間藤、栃木平の7箇所に電話交換所が設けられ、加入者(電話器)の総数が119に達していたことが報告されています。掛水の旧電話交換所は、古河掛水倶楽部の正門を入った左手にあり、現在は足尾銅山電話資料館として公開・保存され自動交換機や電話器、間藤から移設された手動交換機が展示されています。足尾銅山のものとしては現存する唯一の電話交換所ですが、昭和26年に間藤交換所の機能を移設したもので、その際、既にあった建物を転用したものと考えられています。その後、昭和40年に自動交換機が導入され、平成12年まで使用されていました。足尾銅山における電話の導入と普及の歴史を語るためにも、欠くことのできない貴重な建物です。

古河掛水倶楽部開館日に一般公開

7.エネルギー施設

間藤水力発電所跡(市指定史跡)

間藤水力発電所跡にある岩壁横の地面から出ている水圧管の一部の写真

間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9キロメートルに及ぶ水路を木銿で通した。落差32メートルを確保して出力90キロワットで運転を開始し、坑内排水、竪坑捲揚機、照明の電化が実現しました。しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではありませんが、現在、落下部の水圧管の一部と渡良瀬川河床に発電所の基礎構造物が残されています。

外観のみ望見可能です。

通洞変電所(稼働資産)(注意)非公開

カーブした道路の先に建っている、3階建てほどで少し古びた外観をした通洞変電所の写真

変電所は、発電所から送電された電気の電圧を適切な値に変え、必要な所に配分する役目を果たすものです。昭和46年の記録によると、足尾銅山は使用する電力の全量を古河鉱業日光発電事務所(平成15年に古河日光発電株式会社)に所属する5つの発電所(馬道発電所・細尾発電所・上ノ代発電所・背戸山発電所・神戸発電所)によって賄っています。そしてこれらの発電所より、日光足尾2回線、神戸足尾1回線の送電線を経て、通洞変電所・本山変電所・間藤変電所で受電し、それぞれの受持電力使用箇所に送電されました。通洞変電所は、足尾銅山関連施設の多くが廃止され、また取り壊されている中で、現在も足尾地域に電力を供給(東電が古河の施設を使用して各家庭に送電)していると同時に、電力需要の拡大に伴う増設・改変の歴史を伝える貴重な施設です。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

8.工業用水施設

芝の沢取水口

川の一部に石を積み上げてダムのように造られている芝の沢取水口の写真

足尾銅山では、主に選鉱用と製錬用に供するため、多くの工業用水が使用されました。また、銅山の発展に伴う急速な人口増化により飲料水も供給する必要があり、足尾地域内には多数の工業用水(飲料水)施設が設けられました。そのひとつが芝の沢取水口です。明治34年に建設された通洞発電所の発電用水として整備されました。その後、通洞選鉱所の工業用水として利用されました。渡良瀬橋に隣接する水管橋は、その関連施設のひとつです。

外観のみ望見可能です。

9.治山・砂防施設

足尾砂防堰堤、松木沢砂防堰堤群(稼働資産)

堰堤の手前には緑の芝生が広がり、足尾砂防堰堤の奥には山々が見えている写真

煙害等により荒廃した山からの土砂流出防止のため、明治30年以降、製錬所周辺の松木沢を中心に、多数の堰堤が建設されました。また、昭和初期からは「渡良瀬川流域砂防工事計画」が策定され、松木川、仁田元川、久蔵川に砂防堰堤群が建設されました。さらにこれら三川の合流部に大規模な足尾砂防堰堤が昭和30年に完成し、また古河が自熔製錬法と電気収塵法と接触式硫酸製造による無公害型の製錬システムを稼働させ、亜硫酸ガスによる被害が軽減されると治山事業と砂防事業の連携もいっそう強化されることになりました。そして、平成になると、市民ボランティアによる植樹活動なども展開され、現在では、自然環境の保護とその大切さを伝える取り組みが実施されています。

銅親水公園で外観のみ望見可能です。また、松木ゲートより先は車両での進入は出来ません。徒歩の場合も各自の責任で事故等に十分注意してください。

10.浄水場

間藤浄水場(稼働資産)、中才浄水場(稼働資産)(注意)非公開

中才鉱山住宅方面から見た中才浄水場の写真

明治30年に政府から発令された予防工事命令により坑内廃水はすべて中和、沈殿して放水することが義務づけられ、本山、通洞などの主要坑口にそれぞれ浄水場が設置されました。本山坑(製錬所廃水を含む)からの廃水は間藤浄水場で処理され、通洞坑の廃水は中才浄水場で処理されました。中才浄水場は、当時の施設を改良し今も浄水処理が行われています。

内部や敷地内では見学できません。

11.堆積場

原堆積場(稼働資産)(注意)非公開

道路に沿って長く奥へと続いている国道122号沿いの原堆積場擁壁の写真

堆積場とは、坑内から排出される捨石や砂、選鉱所で出る砂や泥、製錬所で出るからみ、浄水場における沈殿物などを堆積するための施設のことで、明治30年の予防工事命令に足尾の各地に設置されました。そのなかでも原堆積場は、大正6年に設置され、昭和35年までの40年間あまり使用されました。当時は、廃石などの運搬には、索道が使われていました。現在は、昭和35年に設置された簀子橋堆積場に集約され、中才浄水場における沈殿物はポンプ輸送されています。

内部や敷地内では見学できません。

12.社宅

掛水重役役宅(県指定有形文化財)

古びた木造の塀の奥に建っている掛水重役役宅所長宅の外観写真

現存する6棟の掛水重役役宅群は、明治40年の足尾暴動事件による足尾鉱業所の掛水移転をきっかけに建設された所長、副所長、課長等の役宅で、足尾銅山の中枢部を構成した最も重要かつ上質の役宅群でした。明治期に建設された鉱山役宅群が、わずか6棟とはいえ敷地を含めてほぼ創建時の状態で現存している例は、全国的にも極めて珍しく、そのうち5棟は明治40年、残りの1棟が大正3年という建設年代が確認されている点でも貴重であります。これらの重役役宅は、いずれも接客部分と居住部分を明確に分離する方針が貫かれており、大規模な所長、副所長役宅ではそれらを別棟で構成し、より小規模な課長役宅では中廊下を用いて動線を処理しています。わが国の近代住宅史においては、洋風応接室の付加や中廊下型の平面は、明治末期にその例が見られるようになるものの、実際に都市部の中流住宅に普及するのは大正期になってからであり、したがって掛水重役役宅群は、当時としては最先端の住宅建築であったということがわかります。

古河掛水倶楽部開館日に一部公開。

中才鉱山住宅(注意)非公開

山の麓にある、緑の屋根や赤い屋根をした中才鉱山住宅(現日光市特別市営住宅)の写真

中才鉱山住宅は、主として通洞選鉱所で働く鉱夫たちの社宅として、明治38年に建設されました。明治41年には合計50棟あまりあったといわれていますが、この年の大火によって全焼したため、大正元年に再建されました。昭和48年の閉山直後に建物は総て足尾町に譲渡され、以後、町営住宅(現在は日光市の「特別市営住宅」)として使用されています。現存する長屋は木造平屋・切妻造・鉄板葺で、この他、共同浴場と集会所、共同便所、さらに、煉瓦造の防火壁も2箇所に残されています。最も多数を占める3連戸の標準的な間取り(1戸)は、裏庭に面して6畳2室を並べ、正面に3畳あるいは4畳半と台所を並べて、そのどちらかに玄関を設けており、床面積は10.5坪(34.65平方メートル)~14坪(46.28平方メートル)程度です。屋外には2棟ごとに共同便所が現存していますが、現在は多くの住戸で裏庭側に専用の便所を増設しています。この他、裏庭側には居室や物置の増築も目立ち、内外部の改装も行なわれているが、正面側は殆んど増改築されておらず、大正元年以来の鉱山住宅の景観が今も保たれています。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。また住民の迷惑にならないようお願いします。

13.生活・教育・文化施設

本山鉱山神社跡(国指定史跡)

本山鉱山神社跡の社殿と社殿の前にある鳥居を、下から見上げるように写した写真

足尾には、既に江戸時代から多数の山神社があったと云われていますが、明治期になると、足尾銅山の発展に伴って新たに本山、通洞、小滝に鉱山神社(山神社)が設けられ、このうち最も古いのが本山鉱山神社です。本山鉱山神社は、明治22年、当時の坑長(鉱業所長)木村長七が銅山で働く坑夫や鉱夫たちと計って本山杉菜畑に建設したものです。社殿の建設にあたっては、足尾銅山で働く多くの人々の献金によったことが、参道脇に残る石碑「社殿建設献金之碑」によって知られます。献金者は鉱長をはじめ鉱業所の職員、坑夫、掘子、鉱夫、職人など、人数が記されているだけでも総数1634人に達しています。以後、毎年、山神祭が挙行され、人々の生活と一体となっていましたが、昭和48年の閉山によって中止され、本山鉱山神社の祭紳も通洞鉱山神社に合祀されました。平成26年3月に国史跡に追加指定されました。

外観のみ望見可能です。建物の内部は見学できません。なお、参道の一部が崩れており敷地内への立ち入りが困難となっています。十分注意してください。

足尾キリスト教会(国登録有形文化財)(注意)非公開

外壁がクリーム色で、赤い三角屋根をした屋根の上に十字架が設置されている足尾キリスト教会の外観写真

足尾におけるキリスト教の活動は明治27年に始まったとされています。明治39年には英国人H・R・ワンセーと石崎貞作の2人の宣教師が足尾に入り、本格的な布教活動を開始するとともに教会建設の準備に取り掛かりました。そして、現在地に足尾キリスト教会が完成したのは、足尾大暴動が起きた翌年の明治41年です。建設にあたっては、英国のマイナーズ・ミッションから2,500円の献金を受けました。同ミッションは、英国の銅山経営で成功したG・ビビアンが世界各国の鉱山に教会を建てることを目的に創設した組織です。日本で唯一、その対象に選ばれたのが足尾銅山でありました。その後、組織や所有者が変更したこともあり、戦前・戦後を通じて小規模な増築や内外部の改装が行われましたが、窓枠や軸部、小屋組などは当初のままで、外観や平面も創建時の状態を受け継いでいます。素朴な洋風建築ですが、わが国有数の近代鉱山町における明治末期のキリスト教建築であり、当時の銅山従事者の生活や信仰に関わる貴重な建物です。教会は、現在、福音伝道教団に受け継がれています。

外観のみ望見可能です。建物の内部や敷地内では見学できません。

旧本山小学校講堂(国登録有形文化財)(注意)非公開

木造平屋・切妻屋根で、周りを緑の木々に囲まれている本山小学校講堂の外観写真

銅山の発展によって坑夫たちを中心とする銅山関係従業員の子弟が急速に増加したことから、古河は私立古河足尾銅山尋常高等小学校を創立しました。これが旧本山小学校の前身です。昭和22年4月の新学制の施行によって公立に移管され、足尾町立本山小学校となり平成17年4月、足尾小学校に統合されてその歴史に幕を下ろしました。かつての古河足尾銅山尋常高等小学校校舎で現存するのは昭和15年に建設された講堂だけです。講堂は木造平屋・切妻造鉄板葺・妻入り、外壁仕上げは下見板貼で、正面および背面の妻壁は木骨を意匠的に配したハーフチンバーの造りと両側面に設けられた木造の控え壁とともに、この建物の外観を特徴付けています。足尾には銅山の発展に伴って多くの福利厚生施設や教育施設が建設されたが、ほとんど現存していません。旧本山小学校講堂は、足尾銅山が設立・経営した私立古河足尾銅山尋常高等小学校の唯一の貴重な遺構であります。

外観のみ望見可能です。建物の内部や学校敷地内では見学できません。

14.景観

松木地域旧三村

草が生えた広い場所に3つの石碑のようなものが設置されている松木地域旧三村の松木地区の光景写真

松木地域は中世以来3つの山村がありましたが、明治17年建設の直利橋製錬分工場から排出された亜硫酸ガスの悪影響や山林の乱伐、大火により住居は減少していきました。その後、鉱毒予防工事命令により設置された脱硫塔が煙害を著しくし、住民は移転を余儀なくされました。明治35年には地権者との示談が終結し廃村となりました。現在、多くの方により植樹が行われ、銅親水公園にある足尾環境学習センターでは松木地域旧三村の煙害の歴史や環境問題について学習することができます。

足尾環境学習センターに関するお問い合わせ先は下記リンクをご覧ください。

松木ゲートから先は車両での進入は出来ません。徒歩の場合も各自の責任で事故等に十分注意してください。

15.鉱山都市遺跡

小滝地区

取り壊された小滝浴場跡(鉱盛橋たもと)の写真

足尾地域では、坑口ごとに都市(集落)が形成されましたが、そのひとつで小滝坑を中心とした地域が小滝地区です。小滝地区は庚申川の谷筋沿いに、集落や鉱山施設を形成し、国道122号から国民宿舎かじか荘に向かった道路沿いの宇都野橋からかじか荘までの範囲に展開されました。この範囲の中に、小滝坑口・選鉱所・製錬所・浄水場・社宅・学校・商店街などの生産施設、銅山で働く人々の生活施設、新市街地が形成されました。特に広道路(文象橋付近)からかじか荘のある銀山平までは古河が開発したインフラで、文象と花柄(文象橋と庚申ダムの間)はそれに伴い新規に形成された商業地域です。昭和29年に小滝坑の閉鎖に伴い小滝集落の建物は、取り壊しや他の地区に移転されました。しかし、その後、大きな開発も行われなかったため、施設や社宅の地割など、生活空間の様相をまとまりよく伝えています。現在、「小滝の里公園」では、選鉱所の跡や対岸に造成された社宅跡を望むことができ、また、小滝地区の概要を説明した案内板が設置され、往時の姿を偲ぶことができます。

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この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局文化財課世界遺産推進係
電話番号:0288-25-3200
ファックス番号:0288-25-7334
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