日光の社寺:輪王寺

8世紀末に、日光を開山した勝道上人の創建による四本竜寺を起源とし、日光山の中心寺院として発展してきましたが、承応2年(1653年)に、三代将軍・徳川家光公の霊廟である大猷院が境内に造営されて以来、徳川幕府の尊崇を受けました。大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿が国宝に、その他の37棟が重要文化財に指定されています。

本堂(三仏堂)(C1)

建物正面の中央に「金堂」と金色で書かれた扁額が飾られ、大きな入母屋造りの建物が階段を上った先にある輪王寺本堂の写真

本堂(三仏堂)は、嘉祥元年(848年)に創建されたと伝えられるが、現在の本堂は、正保4年(1647年)に造営され、明治4年(187年1)の神仏分離令の実施に伴い、明治12年(1879年)に現位置に移転されたものである。造営以後の長い年月により、形式の一部に変更が見られたが、近年、調査によって得られた資料に基づき、屋根を除き造営当初の形式に復旧され、江戸時代前期の形式をよく現している。

開山堂(かいざんどう)(C4)

全体が朱色、重層宝形造りで、下層に黒い窓が設置されている開山堂(かいざんどう)の写真

開山堂は、日光を開山した勝道を祀る霊廟で、享保5年(1720年)頃に造営されたもので、唐様の重層宝形造り、総弁柄朱漆塗りの建物で、江戸時代中期の建築様式を現している。地蔵菩薩像が安置され、毎年4月1日に開山会法要が行われる。

常行堂(C5)、法華堂(C6)

全体が朱色の宝形造で、正面中央に中央が白色の階段が設置されている常行堂の写真

常行堂と法華堂は、平安時代に創建されたが、現在の建物は、慶安2年(1649年)に再建されたものである。和様の常行堂と唐様の法華堂が渡廊下で繋がり、慈眼堂への入口にもなっている。

宝形造、全体が朱色、左側に渡り廊下が伸びている法華堂の写真

常行堂には、開口部などの一部に変更があったが、近年、調査によって得られた資料に基づき、造営当初の形式に復原された。

三重塔(C16)

三重塔の最上部部分をアップで写した写真

三重塔は、四本竜寺の創建の地に、貞享2年(1685年)に再建されたもので、初重から二重、三重に至る逓減が良く、安定感のある塔であり、江戸時代中期の形式を良く現している。

大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿(C17)

朱色の高欄、建物全体が金色と黒色で装飾され重厚感のある大猷院霊廟本殿の写真

大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿は、承応2年(1653年)に造営されたもので、江戸時代の修理において塗装の仕上げに一部変更があったが、他には全く後世の形式変更はない。大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿は、東照宮と同様に「権現造」様式であるが、東照宮の石の間に相当する相の間の床が、拝殿と同じ高さとなり、中殿の形式とするとともに、本殿の屋根を二層にするなど形式の相違が見られる。また、これらは、当時の第一級の技術者により造営され、当初から、彫刻、漆塗、彩色、飾金具などの建築装飾に優れた技法が用いられた。

大猷院霊廟唐門(C18)

入口の左右に瑞垣が延びており、門の上部には金色で装飾がされている大猷院霊廟唐門を正面から写した写真

大猷院霊廟唐門、夜叉門、皇嘉門は、大猷院霊廟の造営に伴い、承応2年(1653年)に造営された門であり、後世における形式変更はない。大猷院霊廟唐門は、向唐門で、屋根の前後の軒を唐破風形とし、細かい地紋彫の彫刻や透彫の飾金具など、構造、意匠、技巧に優れた技術が見られる。

大猷院霊廟夜叉門(C23)

金色や朱色などで煌びやかに装飾されている大猷院霊廟夜叉門上部をアップで写した写真

大猷院霊廟夜叉門は、八御門で、屋根の前後の軒を唐破風形とし、彫刻を牡丹で統一し、柱に胡麻殻の面をとるなど、構造、意匠、技巧に優れた技術が見られる。なお、正面左右の間に赤と青、背面には白と群青色に彩色された夜叉像を安置している。

大猷院霊廟皇嘉門(C32)

切妻造、門上部に赤や青、金色で装飾がされ、門の腰壁が白色に塗られている大猷院霊廟皇嘉門の写真

大猷院霊廟皇嘉門は、奥院への入口に立つ「竜宮造」様式の門で、腰壁を密陀塗という特殊な技法で白色に塗装するなど、構造、意匠、技巧に優れた技術が見られる。

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