足尾銅山の歴史

近世以前

人1人通れる程の幅で奥へと坑道が続いている近世の坑道跡(狸掘といわれる)の写真

足尾銅山は16世紀後半には現在の栃木県南西部、佐野市域を拠点とする佐野氏により採掘されていたと考えられていますが、慶長15年(1610年)以降徳川幕府直轄支配となり、銅山奉行の代官所が設置され開発が進められました。

江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、貞享元年(1684年)の生産量は1,500トンに達しました。

足尾銅山で生産された精銅は、江戸城、日光山、上野の寛永寺、芝の増上寺などの銅瓦に使用され、さらには長崎からオランダなどへも輸出されました。

やがて、寛保~延享期(1741-1748年)に至り産銅量が減少し、足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された通貨が鋳造されましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となってしまいました。

古河市兵衛の銅山経営

明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となりましたが、明治5年(1872年)に民間に払い下げられ、明治10年に古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収し経営に着手しました。

当初の産銅量は年間100トンにも満たず厳しい状況が続きましたが、これを打開したのが同14年の鷹之巣直利(富鉱)、同17年の横間歩大直利の発見です。

古河市兵衛は大直利の発見以降、足尾銅山を旧来の採掘方法から脱却させるため、産銅システムの各工程と輸送方法に、次々と西洋の先端的な技術を取り入れることで生産量を増やし、明治17年に国内1位の産銅量を記録して以来、大正前期までその地位を確保し続けました。

足尾銅山の最盛期

坑道内の天井や壁が木製の柱や板で補強され、地面には線路が敷かれている通洞坑坑道の写真

明治後期から昭和初期までが足尾銅山及び足尾町の最盛期と言えます。

明治23年(1890年)には、間藤の水力発電の運転を開始し、水車や蒸気機関に変わって電気が坑内の巻揚機、照明、坑内外輸送等の主動力として利用されました。明治39年(1906年)に細尾第一発電所が竣工すると、豊富な電力が日光から供給されるようになりました。

採鉱部門については、明治29年(1896年)に通洞坑が本山坑・小滝坑と結ばれ、基幹坑道が完成することにより組織的な開発が進められました。明治40年頃には主要坑道は電車による坑内運搬が行われるようになり、また、同年には高品位巨大鉱床である「河鹿」が発見され、その後も多くの河鹿鉱床が発見・開発されました。大正期に入ると河鹿鉱床の採鉱が主となり、足尾式の小型鑿岩機の開発や大型コンプレッサーの導入などが進められました。

選鉱部門については、大正6年(1917年)に低品位の鉱石から鉱物を気泡に付着させて回収する浮遊選鉱法が導入され、また、大正9年に小滝選鉱所、同10年に本山選鉱所が廃止となり、通洞選鉱所に統合されました。

製錬部門については、本山地区の製錬所に集約され、ベッセマー式転炉を導入して銅製錬の近代化・効率化に努め、明治43年(1910年)には製錬新工場が完成。その後も第2新工場や粗亜砒酸、蒼鉛工場の建設などが行われました。

山が見える手前に架かっている足尾鉄道第一松木川橋梁の写真

輸送については、明治期は馬車鉄道及び地蔵坂~細尾間等の架空索道を主な輸送手段としたが、大正元年(1912年)の足尾鉄道開通により、大量に物資輸送できる鉄道輸送に切り替えがなされました。また、町内輸送は大正14年(1925年)に馬車鉄道からガソリンカーに切り替えられました。しかし、廃石・からみなどの廃棄物や群馬県根利山からの木材輸送については、架空索道がその後も使用されました。

このような産銅システムの技術革新に伴い銅山は発展し、大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も増えて大正5年には38,428人に達しました。人口増加とあわせて町には鉱山住宅、鉱山病院、学校及び生活物資の販売所(三養会)など、古河による就業者とその家族のための諸施設が整えられ、栃木県下第2位の人口規模を誇る鉱山都市が形成されるに至りました。大正3年から同7年(1914-1918年)にかけての第一次世界大戦は日本に空前の好景気をもたらし、この後押しによりさらなる成長を遂げた古河は事業を多角化し、財閥を形成することとなりました。

繁栄を誇る一方で、労働運動の嚆矢も足尾で認められます。明治40年、鉱夫の待遇改善への不満に端を発した大規模な暴動事件が発生し、本山の所長宅などが焼き討ちにあいました。この「足尾暴動」は新たな鉱業所事務所や重役役宅の掛水への移転を促進させました。

予防工事命令

足尾銅山の急速な近代化によって生じた問題のひとつが、所謂「足尾鉱毒事件」です。足尾銅山における鉱害とは、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、からみ)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であり、わが国初の公害事件でありました。

足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとしました。明治23年(1890年)8月に起きた渡良瀬川の大洪水による足尾銅山下流域の農作物被害が契機となって、鉱害問題が顕在化し、さらに同24年12月の第二回帝国議会において、田中正造から鉱害問題に対する質問がなされ、やがて大きな社会問題となりました。

栃木県や郡役場などが仲裁に入り、明治25年8月に藤岡町、野木村、部屋村、生井村と足尾銅山の鉱業主である古河市兵衛との間に示談契約が結ばれ、古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策を行いました。廃水処理対策として、鉱滓中の銅分を採減するために米独両国から粉末銅鉱採取機(選鉱過程での一作業である洗鉱の際に流出する銅を採取する機器)を、同26年と27年に渡り本山と小滝に導入、さらに沈澱池を各選鉱所に設けました。ただし、渡良瀬川の治水対策に関しては不備のままであり、明治29年9月に再び発生した大洪水によって渡良瀬川下流域では破堤氾濫が生じ、同23年8月の洪水以上の農作地被害がもたらされました。これにより鉱毒問題は再燃し、堤防改良、足尾銅山の鉱業停止、租税減免の請願が被害民から政府に出されました。

事態を重く見た明治政府は、対応を農商務省に指示、同省は明治29年12月25日に第一回予防工事命令を古河に対して発した。この命令を受けて古河は、本山、通洞及び小滝にそれぞれ沈殿池と堆積場の設置を急ぎ実施しました。

しかしながら、この予防工事命令に対しては古河に温情的であるという非難が、田中正造らによって強く主張され、そして足尾銅山の操業停止を求める声が高まり、明治30年3月、内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられました。政府は調査会の意見を受けて同年5月13日に第二回予防工事命令を発しましたが、このわずか2週間後の明治30年5月27日に第三回予防工事命令が発せられました。

草木の茂みの間から遠くに見えている間藤浄水場(上の平から望む)の写真

第三回予防工事命令は、これまでの2回と異なり、古河にとって極めて厳しい内容でした。それは、命令書交付後7日以内の着工と、工事毎に竣工期限が最小30日、最大でも180日とされ、もし遅延した場合は鉱業を停止するという、30項目に及ぶ具体的な工事内容の命令でした。

その主旨は、本山、小滝及び通洞3坑の坑水と坑外の選鉱・製錬の排水は沈殿池と濾過池で処理して無害の水として河川に放流すること、坑内廃石、選鉱滓という銅分を含有する鉱山廃棄物は十分に管理された堆積場に集積すること、製錬作業によって排出される排煙は除塵・脱硫して放出すること、という3つの項目に集約できます。

古河はこの前例のない大規模な予防工事命令に対して、約100万円の巨費を投じて工事を明治30年11月22日に完了させました。予防工事は期限内に完了し、排水処理と鉱山廃棄物の処理は改善されましたが、煙害防止については、明治30年に脱硫塔の建設、大正4年希釈法の導入、同7年に電気集塵法を導入するなど、様々な煙害対策を講じましたが、抜本的な問題解決には至りませんでした。加えて明治31年から明治33年に相次いで大洪水に見舞われるなど、鉱毒問題は依然として世間の注目を集めました。

このような背景のもと、明治32年3月に脱硫塔操業に関する第四回予防工事命令、同36年7月に廃水処理の徹底と堆積場の改良等を柱とする第五回予防工事命令が発令されました。古河はこれらの命令を遵守し、銅山の廃棄物に起因する水質汚染の処理設備を整えました。

一方、松木からの土砂流出に対しては、明治30年以降、国(農商務省)と栃木県によりその対策が講じられてきましたが、排煙処理が未解決な時点での抜本的対策は困難であったことから、足尾銅山鉱毒問題の解決は、後述する昭和29年(1954年)に導入された自熔製錬法に伴う排煙中の脱硫技術の実用化まで待たねばなりませんでした。

古河の経営危機と戦時中の足尾銅山

第一次世界大戦のもたらした好景気により、財閥を形成した古河でしたが、大正8年(1919年)に起きた古河商事部門の中国大陸における巨額の損失事件は、古河財閥に多大な影響を及ぼしました。足尾鉱業所も合理化を余儀なくされ、建築後わずか十数年の足尾鉱業所事務所は、大正10年足利市に売却されました。しかし、さらなる河鹿鉱床の発見と浮遊選鉱法の導入により足尾銅山は安定した経営を維持し、昭和恐慌を乗り切りました。

昭和12年(1937年)の日中戦争はやがて、世界規模の戦争へと拡大し、昭和15~20年(1940-1945年)の戦時下において、政府の非常時増産運動が展開され、足尾銅山も増産を余儀なくされました。しかし、この時期足尾銅山では巨大な河鹿鉱床の発見はなく、鉱脈も小規模のものしか発見されませんでした。このような状況にあって非常時増産を強要された結果、無計画な乱掘に至ってしまいました。

製錬部門では、人員不足と自産鉱や他山受入鉱の減少などにより生産量は低下しました。戦時下の労働力不足を補う目的で、朝鮮半島からの労働人口の調達がなされ、坑内外での作業に従事させられました。

足尾銅山の戦後と閉山

戦後の足尾銅山の産銅量は徐々に増加するものの、最盛期の産銅量には遠く及びませんでした。厳しい経営状況の中、合理化の一環として小滝坑が昭和29年(1954年)に閉鎖され、鉱山住宅などの厚生施設が本山、通洞に集約されました。

選鉱部門については、昭和23年に重液選鉱法が、戦後わが国の鉱山では初めて実用化されました。製錬部門については、フィンランドのオートクンプ社の自熔製錬法を導入し、昭和31年から自熔製錬が開始された。この方法は、従来よりも熔鉱に使用する燃料を大幅に削減でき、また、排煙中の亜硫酸ガスを硫酸製造に適した高濃度の状態で回収できる画期的な製錬法でありました。本山製錬所では、この自熔製錬法と電気集塵法及び接触硫酸製造法を応用した脱硫技術を世界で初めて実用化し、排煙対策に終止符を打ちました。この自熔製錬法は国内外から高く評価され、国内各地の製錬所のほか、国外の製錬所にも導入されています。

堰堤の手前には緑の芝生が広がり、足尾砂防堰堤の奥には山々が見えている写真

また、昭和2年に計画されたものの、資金難により凍結されていた「渡良瀬川流域砂防工事計画」が、戦後アメリカからの資金援助により再開し、昭和29年、松木川、仁田元川、久蔵川の三川合流点に足尾砂防堰堤が竣工しました。また、昭和52年には足尾砂防堰堤の約20キロメートル下流の群馬県みどり市に草木ダムが竣工し、土砂流出の渡良瀬川への影響は大幅に緩和されました。

輸送に関しては、昭和28年に町内輸送の一翼を担っていたガソリンカー軌道がすべて廃止されました。さらに、昭和35年に簀子橋堆積場が完成し、通洞選鉱所からの廃滓はトラック等の運搬に変わり、足尾銅山の物資輸送における架空索道が全て消えることとなりました。

そして、古河は昭和47年11月に足尾銅山採鉱を止めることを発表し、同48年2月28日に閉山の日を迎え、足尾銅山の長い歴史を閉じました。ただし、製錬部門については、閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、昭和63年に事実上廃止されました。

現在の足尾銅山

青い空を背景に立っている本山製錬所跡大煙突の写真

足尾銅山は昭和48年(1973年)に閉山しましたが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られています。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として稼働しています。

また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつあります。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996年)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われています。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局 文化財課 世界遺産推進係
電話番号:0288-25-3200
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