「日光の社寺」神橋の保存修理

公益財団法人日本社寺文化財保存会 岡部技師

神橋は古くから神聖な橋とされており、日光を開山された勝道上人の伝説にまつわる橋でもあります。別名「山菅橋(やますげばし)」、「御橋(みはし)」とも呼ばれて、信仰上特に重要な位置付けをされてきました。記録によれば室町時代の旅行記である「回国雑記(かいこくざっき)」、「東路の津登(あずまじのつと)」によると、当時すでに有名な橋であったことがわかります。

寛永11年(1634年)からの東照宮造替の際、これまでの勿橋(はねばし:橋脚のない橋)から、石製の橋脚を設けて、勿橋と桁橋を組合せた形式に変わりました。このときの形式は現在の神橋とほとんど相違ないものと見られており、現在のように朱漆塗りではなく素木のままであったことが知られています。なお、この時、神橋の下流側に造られた仮橋が残されて一般の通行にあてられました。

勿橋とは、橋脚が造りにくい渓谷や峡谷に適した造り方です。桔木(はねぎ)と呼ばれる橋桁を両岸の土中に埋め込み、何段にも迫り出して橋桁を設けます。現存する勿橋としては、神橋を除くと山梨県大月市の「猿橋」(名勝指定)があります。

明治32年の神橋の様子が描かれたイラスト

明治32年「大日本下野國日光山全圖」より

明治29年の古写真によると、上流側から神橋、仮橋、青橋(牛車軌道用の橋)が写っており、仮橋は桔木を三段に重ねて迫り出して橋桁を受ける勿橋の形式が残されており、寛永の造替以前の神橋はこのような勿橋であったと見られています。

神橋の反りは、太鼓橋ほどの反りはありませんが、やや強めの曲線になっています。反りは、橋の形を視覚的に整えるものと、橋の構造から反りが付いてしまうものとあります。神橋の橋桁は、構造上台形なので、構造的な反りに視覚的な反りを加えた曲線となります。

神橋の反りを造る工程は、台形状に架けられた橋桁(神橋では乳の木と呼ぶ)の上に、桟梁と呼ぶ梁材を一定の間隔に木組みをします。木組みの際、橋桁と桟梁の欠込みを調整して反りの基本を作ります。次に橋桁に平行して往桁(ゆきげた)と呼ぶ梁材の上に架けます。往桁は反りが付けられており、往桁の上に橋板を打ち付けると反りが出来上がります。反り加減は、昭和修理の資料と今回の調査で半径194尺(58.782メートル)の円弧とわかりました。なお、昭和修理のときの棟梁の口伝によれば「百と六」で丸くなると言われており、ヨコ水平に0~100の目盛りを取り、中央50の目盛り位置にタテ垂直に6を目盛り、0と100と6の目盛りを結ぶ3点に接する円を描くとその半径は、約194尺となりました。

神橋は、江戸時代14回の修理・架け替えが行われ、明治39年、昭和31年に修理されております。今回の平成修理工事は、平成9~12年度で木部の修理を行い、平成13~14年度に漆塗り、金具の修理を予定しております。工事内容は、高欄(こうらん)・橋板(はしいた)・往桁・桟梁(さんばり)・筋違(全て桧材)は解体し、橋桁は残す半解体修理となります。腐朽している高欄・橋板は全て取り替え、桁、梁材等は腐朽の程度に応じて取り替え、矧木(はぎき)等の繕いをします。

橋桁(欅材)は9本のうち2本は明治39年修理のときの部材であり、残る7本は昭和31年修理のときの取替材です。橋桁の腐朽個所は埋木・矧木をして繕い、金物・当木等で構造耐力の補強をします。漆塗は、木材の乾燥を待って行い、金具は整備のうえ漆で金箔を貼って再用し、欠失した金具は復原して補足します。これらの修理費用は85,000万円を見込んでいます。当時の超一流の技術の粋を集めて造営された「日光の社寺」の建造物は、今日まで絶え間なく続けられてきた修理修復によって、その価値が維持されてきたわけです。

そして、この修理修復の体制や技術の高さが「日光の社寺」の世界遺産への推薦や登録に大きな役割を果たしたことはもちろん言うまでもありません。

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教育委員会事務局 文化財課 世界遺産推進係
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