足尾銅山に関するよくある質問

よくある質問や素朴な疑問をまとめてみました。分かりやすく解説するため、簡単にまとめてあります。参考までに、ご覧ください。

足尾銅山はいつ発見されたのか

一般的には慶長15年(1610年)農民の治部と内蔵によって発見されたと言われていますが、天文年間(1550年頃)とも言われており、詳しいことは分かっていません。いずれにしても、16世紀中には銅の採掘をうかがわせる記録もあるので、そのころには発見されていたと思われます。

銅は何に使われているのか

身近なところでは、硬貨です。1円玉以外の硬貨にはすべて銅が使用されています。また、電化製品や自動車、電線・ケーブルなどの電力、通信機器でも用いられています。

銅の価格はどのくらいか

1キログラムあたりだいたい1,200円くらいです。(令和4年1月現在)

江戸時代に鋳造した寛永通宝「足字銭」は何枚作られたのか

足尾で鋳造されたといわれている寛永通宝は、その裏面に「足」の字が印されていることから、通称「足字銭」と呼ばれています。俗に2000万枚鋳造されたと言われてきましたが、実際は2億枚以上とも言われています。

古河市兵衛は足尾銅山をいくらで買収したのか

江戸時代には幕府直轄銅山として栄えたものの、その末期や明治初期には閉山状態となってしまった足尾銅山。明治期に入ると新政府の所有になりましたが、明治5年(1872年)に民間に払い下げられ、古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収したのは明治10年のことでした。さて、その買収にかかった費用ですが、約5万円と言われています。現在の感覚からすると、数億円単位の金額だったと思われます。

どのくらいの銅が掘られたのか

江戸時代は約14.9万トン、明治以降は約67.5万トンで、計約82.4万トンが産出されたと言われています。国内2位の産銅量を誇る愛媛県新居浜市にある別子銅山のそれは約72万tと言われています。

坑道はどのくらいの長さが掘られたのか

足尾銅山は、渡良瀬川、出川、庚申川に囲まれた備前楯山を中心とした範囲で採掘がおこなわれ、一般的に坑道の総延長は1,234キロメートルと言われています。足尾銅山観光がある通洞坑(標高602メートル)を基準にすると、上に20階(高低差約600メートル)下に15階(高低差約450メートル)の水平坑道があり、それらがいくつもの立坑によって結ばれています。立坑は大きなもので、高低差約300メートルから400メートルあります。足尾銅山観光のトロッコの終点に、この先1200キロ以上の坑道が続きます、という表示がありますが、まっすぐ続いているのは約6.5キロメートルです。備前楯山の標高が1272メートルですから、その山頂直下まで坑道が掘られたことになります。

他の鉱山でも通洞坑はあるが、足尾のそれと関係があるのか

通洞とは一般的な鉱山用語で、簡単に言うと坑道を掘るための坑道のことです。主に運搬、排水及び通気用として使用され、その鉱山の中でも最大のものです。また、鉱山を開発する際には、通洞により開鉱することが法律で定められ、その大きさも示されています。よって、どこの鉱山でもその役割を担った坑道が存在するものですが、足尾の場合は開鉱当初から閉山まで場所を変えることなく、通洞坑がその役割を果たし続けたのが特徴です。そのためか、通洞坑がある住所名、その付近の駅名にまで、その名が固有名詞として使われています。

河鹿(かじか)鉱床とは何か

足尾特有の巨大で含銅品位にすぐれた塊状鉱床です。河鹿という名称は、渓流中の石の下に隠れている鰍(カジカ)のようであることから名づけられたと言われています。また、鉱脈鉱床というのは脈というように鉱石部分が筋もしくは管のような状態ですが、河鹿はそれが大きな塊となっている感じです。なお、よく直利(なおり)という言葉も出てきますが、簡単に言うと鉱床が肥大して富鉱部を形成する状態全般を言います。

銅山で働いていた人は何人くらいいたのか

産銅量が最盛期を迎えていた大正期の頃で、約10,000人が働いていました。その後、合理化や機械化とともに減少し4,000人前後で推移しました。第二次世界大戦後は2,000人程度まで減少し、昭和48年(1973年)の閉山直前には1,000人程度でありました。なお、この人数は直接従事する人数ですから、関連する業種も含めればもっとたくさんの人たちが従事していたと思われます。

なぜ閉山したのか

鉱源の枯渇、地下深い部分での採鉱の保安上の問題、貿易の自由化や為替変動相場制への移行などの経済情勢の変化が挙げられます。鉱源の枯渇は採算コストに見合う品位の高い鉱石が採掘できなくなったこと、また、新たな鉱源を求めて地下深く開発していくのに伴い、盤圧の増加による岩盤の軟弱化、温度の上昇など労働条件が悪化し、坑内保安確保が困難になったことが要因です。また経済情勢の変化も、安価な輸入鉱石とのコスト差が拡大する要因となるなど、収支に見合う採鉱が不可能となったことが最大の原因だと思われます。良くもう銅は採れないのですかと聞かれますが、採れるけど採算が合わないので採らない、ということです。

現在も国内で採掘している銅山はあるのか

平成6年(1994年)の秋田県の花岡鉱山等の閉山により、国内の稼行銅鉱山はなくなりました。それ以降、鉛亜鉛鉱山の副産物としてわずかに生産されていましたが、それも現在では閉山し、現在、日本の銅生産のほとんどは輸入鉱石により臨海部等の大型製錬所で行われています。なお、日本の一年間の銅需要量は約百数十万トンで、これは足尾銅山と別子銅山の江戸時代から閉山までの総産銅量の合計に相当する数字です。

足尾銅山の産銅量と人口の変遷を知りたい。

各種資料を参考にまとめました。

足尾の人口は最盛期には栃木県で宇都宮市に次ぐ人口を誇っていたというが、そのときの県内他市の人口を知りたい

旧足尾町の記録では、人口最多年は大正5年で38,428人とされています。では、この時の県内で人口1万人以上の市町の人口を、栃木県統計書戸口著名市街地ノ人口及戸数(大正5年12月31日)から調べてみました。

  • 宇都宮市58,735人
  • 足尾町37,308人
  • 足利町31,647人
  • 栃木町27,018人
  • 鹿沼町16,336人
  • 佐野町15,922人
  • 日光町13,619人
  • 大田原町10,772人

足尾町の人口が一致しませんが、その理由は基準日によるものか統計方法によるものかは分かりません。いずれにしても、宇都宮市に次ぐ人口であったことは間違いないようです。

明治時代に足尾で採れた銅はどのくらい海外に輸出されていたのか

直接その数値が分かる資料はありませんが、明治期の全国銅輸出割合は平均7割~8割と言われています。ですから、明治時代の足尾の産銅量にその割合を乗じてみれば、大雑把でありますが、目安となる数値が分かりそうです。明治時代の足尾銅山の産銅量約170,000トン、輸出割合を75%とすると、約130,000トン前後は輸出されていたことになりますが、実際はどうだったのでしょうか。

人口が多かったのになぜ市制施行しなかったのか

戦前期の市制施行基準は市街地人口25,000人と言われています。足尾の人口がそれを上回るのは明治後期からですが、第一次世界大戦後の不況や昭和恐慌の影響で二万五千人を下回り、それ以降は徐々に人口が減少していきました。このように見ると、基準人口を安定的に維持していた期間はわずかです。産業構造上、景気に左右されやすくその影響で人口の増減もかなり流動的だったこと、公共的なインフラ整備も企業に依存していたため行政基盤が人口規模の割には脆弱だったことが、市制施行に至らなかった要因として考えられます。しかし、明確なことは不明です。

さく岩機はどのように使用されていたのか。あれで岩を削って穴を掘っていたのか

さく岩機は鉱山の採掘やトンネルの掘削する際、その岩盤に発破用ダイナマイトを充てんするための細長い穴を穿つ道具です。仕組みは、ロッドと呼ばれる細長い棒をピストンの往復運動により打撃し、その先端についたビットと呼ばれる刃先で岩石を粉砕します。足尾銅山観光の観光坑道出口付近にさく岩機の体験コーナーがありますが、あれだけでひたすら岩を削っていくわけではありません。

さく岩機の動力はなぜ圧縮空気なのか

現在、さく岩機にはさまざまな種類のものがあり、圧縮空気のみならず電気を使用するものもあります。決して、さく岩機イコール圧縮空気というわけではありませんが、当時も今も圧縮空気はその動力源として活躍しています。

では、なぜ圧縮空気なのか、という点ですが、まず、さく岩機の仕組みから考えてみましょう。当時の一般的なさく岩機の仕組みは、圧縮空気によりシリンダー内のピストンを往復運動させ、その力を打撃力に変換させるものです。これはハンマー式と呼ばれます。例えばこれを電気で動かそうとすると、電動機の回転運動からピストンの往復運動を導く構造が余分に必要となるため、機械が複雑化、重量も増し、故障も多くなります。さく岩機の仕組みは打撃を伴う往復運動ですので、圧縮空気を用いるのが最も適しています。

次に、さく岩機が使用される場所から考えてみましょう。さく岩機は坑内で使用されるので、一般に坑外に置かれているコンプレッサーで製造した圧縮空気を鉄管によって使用する場所まで輸送しなければなりません。当然、その距離が長くなるほど漏気量が多くなり、動力損失が生じます。電線を敷設したほうが経済的ですが、それでも、圧縮空気が用いられるのはさく岩機との適合性のほか、坑内環境への影響があります。まず圧縮空気の特性は、電気を使用する場合と違って可燃性ガス及び炭塵の爆発を引き起こす危険が極めて低くいこと。また、さく岩機からの排気や輸送中生じる漏気には、坑内温度の低下や新鮮な空気の供給という効果があり、坑内労働環境の改善にも役立ちます。

以上のことが、圧縮空気が使用された理由です。

本山製錬所跡にある大煙突の高さはどのくらいか

資料によってまちまちですが、約45メートルです。その高さから12階建てのビルに相当しますが、周りの景色の影響でそんなにあるようには見ません。

足尾銅山の電化を物語る際に必ず登場する間藤水力発電所ですが、最後は日光細尾発電所の稼働によりその役割を終えた、という説明をよく見ます。なぜ日光細尾発電所の稼働でその役割が終わるのか

まず、足尾地域内に設置された発電所では冬場の渇水期に十分な電力供給が難しかった点が挙げられます。そのため中禅寺湖を水源とする大谷川の水勢を利用することが計画され、それまでのつなぎとして足尾内には間藤水力発電所(直流450ボルト)並みの規模の発電所を相次いで建設しました。明治39年に日光細尾発電所(三相交流11,000ボルト)が完成し、足尾銅山に大容量電力の送電が行われたことで、間藤水力発電所は明治42年に足尾電灯株式会社に払い下げられました。

もうひとつは長距離送電の問題です。日本で始まった電灯事業は、エジソンの開発した小型の直流発電機を使用したものが主流であったように、間藤水力発電所に設置された発電機も直流でした。しかし直流では、数キロメートル程度しか送電できません。やがて世界的にも交流による長距離配送電方式が主流になり、それを可能とする高圧化の技術の発達もあって、日光細尾発電所から足尾までの約18キロメートルの送電が実現しました。

このことから、間藤水力発電所が鉱山電化の役割を果たし町内の電灯事業用として利活用されたと思われます。

なお、大正期に足尾電灯株式会社の事業は町営事業に移管されますが、発電所そのものがいつまで存在していたのかは不明です。

足尾銅山の三つの主要坑道である本山坑、通洞坑、小滝坑は繋がっているのか

繋がっていますが、それぞれの坑口は標高が異なるため、すべて水平レベルで連結しているわけではありません。ちなみに各坑口の標高ですが、本山746メートル、通洞602メートル、小滝732メートルです。このうち本山坑と小滝坑は標高差があまりないため、高度調整を行ってその間に複線軌道が敷設されました。通洞坑と本山小滝坑間は、立坑で連結し、人や資材の運搬には巻揚機(エレベーター)が使用されていました。

この記事に関する問い合わせ先

教育委員会事務局文化財課世界遺産推進係
電話番号:0288-25-3200
ファックス番号:0288-25-7334
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