旧日光市歴史年表(江戸1)
西暦/年号 | 旧日光市の歴史 |
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1609(慶長14)年 | 3月5日、日光山の所領について、徳川家康から朱印状が下付される。 |
1610(慶長15)年 | 天海が駿府に招かれる。 |
1611(慶長16)年 | 3月、天海が僧正となる。 |
1613(慶長18)年 | 11月、昌尊が退山し、天海が光明院座主となる。 華蔵院が昌寿本坊留守居となる。 |
1616(元和2)年 | 4月17日、徳川家康が駿府で死去。 7月13日、家康の神号が「権現」に勅定される。 7月27日、天海が大僧正に任ぜられる。 |
1617(元和3)年 | 1月22日、日光東照社仮殿遷宮並びに居礎日時定の陣儀が行われる。 2月21日、徳川家康に東照大権現の神号を勅賜。 3月9日、東照大権現神位叙位日時定の陣儀、東照社正一位に叙す。 3月15日、徳川家康の霊柩が久能山を出発。 4月4日、東照社が日光山に遷座。日光東照社が竣工。 4月16日、徳川秀忠が日光山へ到着、神位を東照社仮殿より本殿へ遷座する。 4月17日、日光東照社の祭礼。 4月22日、東照社造営副奉行・本多正盛が切腹を命じられる。 4月、伊達政宗が東照社に南蛮鉄燈籠を寄進。 東照社の奉仕者として衆徒、社家、一坊、宮仕、神人等が召し出される。東照宮別当大楽院の草創。 |
1618(元和4)年 | 4月17日、黒田長政が東照社に大石鳥居を寄進。 |
1619(元和5)年 | 1月21日、大工頭・中井正清が没。 4月17日、徳川秀忠が日光社参。 9月、東照社の西側に常行・法華両堂を移し、新宮(二荒山神社)が造営される。 |
1620(元和6)年 | 3月15日、徳川秀忠が、天海に日光山領と東照大権現社領の朱印状を発行。 6月、山口忠兵衛常信が日光目代となる。 |
1622(元和8)年 | 4月、奥院宝塔と石垣の造営が竣工。 4月17日、東照社七回神忌。徳川秀忠が日光社参。 |
1623(元和9)年 | 4月17日、大納言・徳川家光が日光社参。 |
1625(寛永2)年 | 7月13日、将軍・徳川家光が日光社参。 7月25日、勘定奉行・松平正綱が日光道中に杉の木を植える(日光杉並木)。 |
1626(寛永3)年 | 11月16日、中山釈迦堂が焼失。 |
1627(寛永4)年 | 将軍御殿の創建。 |
1628(寛永5)年 | 4月17日、東照社13回神忌。大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光が日光社参。 日光山菩提所妙道院が仏岩谷に建立される。 |
1629(寛永6)年 | 4月17日、徳川家光が日光社参。 5月、伊奈忠治が鬼怒川下流の開削工事を行なう。 9月17日、徳川秀忠が日光社参。 神橋の架け替え。 |
1631(寛永8)年 | 7月26日、山口忠兵衛が没。 |
1632(寛永9)年 | 4月17日、東照社17回神忌。徳川家光は今市に宿営し、井伊直孝が日光に代参。 |
1633(寛永10)年 | 6月1日、天海が御幸町の課役を免除。 |
1634(寛永11)年 | 5月2日、徳川家光が、東照大権現領と日光領を一体として7000石を寄進。 9月17日、徳川家光が日光社参。 11月17日、東照社の大造替に着工。(寛永の大造営-総奉行:秋元泰朝、大棟梁:甲良宗広) |
1635(寛永12)年 | 5月、天海が日光山に登り、東照大権現仮殿遷宮のことを奉修。 |
1636(寛永13)年 | 4月10日、東照社の造替が完成。神橋の造替。オランダ商館が東照社へシャンデリアを奉納。 4月17日、東照社21回神忌。徳川家光が日光社参。 12月21日、朝鮮使節が日光山へ参詣。 狩野探幽が「東照大権現縁起絵巻」を画き始める。林羅山が「東照大権現新廟斎会記」を書く。堀杏庵が「中山日記」(日光紀行)を書く。 |
1637(寛永14)年 | 3月、天海版一切経の刊行。 楽人の創設。 |
1638(寛永15)年 | 1月27日、馬町より出火し、山中の坊舎が焼失。 2月3日、松平正綱が日光山へ来て、火災後の検査を行なう。 |
1639(寛永16)年 | 光明院旧跡に将軍御殿が再建される。 |
1640(寛永17)年 | 4月17日、東照社25回神忌。徳川家光が日光社参をして、「東照社縁起」を奉納。 8月、春日局が東照社に参詣。 9月、山内の民家を稲荷町と松原町へ移す。 オランダ商館長がスタンド式灯架とブラケット式灯架を東照社に献上。 |
1641(寛永18)年 | 4月17日、徳川家光が日光社参。 7月、東照社奥院石の宝塔の造営が竣工。 9月16日、宝塔の完成供養。 11月、前の年に移転した衆徒、一坊、町人へ幕府が移転料7370両を支給。 座禅院屋敷の隣に将軍御殿が移される。田母沢に妙道院が移築される。 |
1642(寛永19)年 | 4月17日、徳川家光が日光社参。 三仏堂が大雪により破損。 |
1643(寛永20)年 | 5月28日、相輪塔が造立され、供養が行なわれる。 7月26日、朝鮮使節が日光山へ参詣。 10月2日、天海が江戸東叡山で没す。 10月17日、天海の棺が大黒山の廟所に埋葬される。 10月、公海が日光山門跡となる。オランダ商館長が東照社に回転灯架を献上。 |
1644(正保元)年 | 7月3日、薩摩藩の島津光久が、琉球の使節70人を引き連れ日光山に赴く。 慈眼堂別当無量院の草創。 |
1645(正保2)年 | 6月、日光山で地震が発生。老中・阿部重次が破損個所を検視。 6月16日、石垣の修築が完了、正遷宮。 11月3日、東照社に宮号が宣下され、東照宮となる。 学頭修学院の創設。新たに衆徒5ヵ寺が取り立てられる(衆徒20坊となる)。 三重塔が四本龍寺の東側に移建される。 |
1646(正保3)年 | 3月10日、参議・持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮に派遣される。 4月26日、奥羽地方大地震により、日光山の瑞垣と石垣が破損。 秋、本社の北廻廊を除去し、鞘石垣を普請(翌年に完工)。 12月21日、大番組旗本10名が日光火の番を命じられる。 公海が峰禅頂で天下安全の祈祷を命じる。 |
1647(正保4)年 | 4月17日、持明院基定が東照宮に奉幣(日光例幣使の最初。以後、日光東照宮への勅使を日光例幣使と呼称する)。 三仏堂の造営が完成。 鉢石町が宿場となる。 |
1648(慶安元)年 | 3月24日、日光社参の諸大名に対し、御餞の献上の規定が設けられる。 4月17日、東照宮三十三回神忌。徳川家光が日光社参。糸割符商人が東照宮へ唐銅大燈籠を献上。 4月21日、天海に慈眼大師の追号が勅諡される。 7月、日光御殿番(4名)が置かれる。 9月、常行・法華両堂を大師堂の坂本に移転《~1649(慶安2)年》。 10月25日、日光山の僧侶13人が佐渡国へ流される。 松平正綱による日光杉並木が完成(のちに、子・正信が寄進碑を建立)。 |
1649(慶安2)年 | 4月、足尾銅山街道が開かれる。 4月17日、大納言・徳川家綱が日光社参。 6月20日、地震により相輪塔が傾く。 12月8日、日光御殿が完成。法華堂と慈眼大師堂の造営が終わる。 |
1650(慶安3)年 | 2月23日、徳川家光の病気平癒の祈祷を日光山で行なう。 3月24日、再び地震で相輪塔が傾く。 4月8日、公海が入峰諸法度を定める。 6月8日、相輪塔を三仏堂の脇に移建し、完工の供養を行なう。 10月18日、唐銅鳥居と唐門が造営される。 12月17日、酒井忠勝の寄進による五重塔が竣工し、供養が行なわれる。 |
1651(慶安4)年 | 4月20日、徳川家光が没。 5月3日、徳川家光に大猷院号が勅諡される。 5月6日、徳川家光の遺体が日光大黒山に埋葬される。 6月22日、腰物役・加藤治次ら2名が日光山定番を命じられる。 12月1日、幕府が日光、東叡、川越仙波の三宮の年中祭祀と神領配当についての条目を定める。 堀定良が日光山に定住し、徳川家光に殉死した堀田正盛以下5名の墓碑を妙道院に建てる。 |
1652(承応元)年 | 2月16日、大猷院廟の造営が着工される。 6月、八王子千人同心が日光謹番(火の番)を命じられ、千人頭2人、2組100人が日光へ赴く。 7月21日、梶定良が大猷院廟定番を命じられる。 幕府が今市に米蔵を建てる。 |
1653(承応2)年 | 4月20日、幕府が大猷院廟領として3630石を寄進。 4月、林羅山が「日光山紀行」を書く。 5月、大猷院別当龍光院が草創され、竹翁が別当を命じられる。 10月14日、大猷院廟が完成し、入仏の儀が行なわれる。 12月、「下野国日光山図」が刊行。 神領本高100石につき年貢金14両(年貢率三ツ五分)に統一される。 |
1654(承応3)年 | 1月7日、本坊より出火し、焼失。 6月16日、東照宮の銅瓦葺が完成し、正遷宮。 11月11日、守澄法親王が日光山貫主となり、東叡山の貫主を兼務。 |
1655(明暦元)年 | 9月17日、徳川家綱が東照宮社領と大猷院廟領の寄進状と日光山条目を公布。 10月18日、朝鮮使節が大猷院へ参詣。 11月、日光門主守澄法親王に輪王寺宮号を勅賜。 |
1659(万治2)年 | 7月1日~2日、日光大風雨。 神橋の架け替え。 |
1661(寛文元)年 | 2月8日、日光神領が困窮について江戸へ出訴。 3月26日、日光山中の火事により銅庫7宇と民家249軒が焼失。 |
1662(寛文2)年 | 6月3日、稲荷川の大洪水。目付代・田中高成をはじめ、同心10人、町人148人が死亡、流失家屋は300軒余。 三仏堂を銅瓦葺に替える。 |
1663(寛文3)年 | 4月17日、徳川家綱が日光社参。 5月、稲荷川の火の番屋敷が下鉢石の大横町に移転。 林衡が「癸卯干役日録」(日光紀行)を書く。 |
1664(寛文4)年 | 3月、中禅寺権現社殿の修築。 9月3日、東照宮の修理が完成し、正遷宮。 9月11日、峰禅頂の頭役を義務づける。 |
1665(寛文5)年 | 4月17日、東照宮50回神忌。 |
1666(寛文6)年 | 4月、衆徒の寄り合いで堂者札の発行の再確認。 日光神領の諸村で検地。 |
1667(寛文7)年 | 9月17日、神領の年貢納入方式を変更(本高100石につき金20両物成)。 |
1668(寛文8)年 | 1月29日、久次良村の大火。 5月18日、目代と衆徒らが、衆徒・一坊の旦那を止宿させた町人の処罰を定める。 9月14日、日光山が堂者札の発行方法について詳しく定める。 |
1672(寛文12)年 | 1月9日、日光火の番を千人1人、1組50人に減らす。 |
1676(延宝4)年 | 1月15日、守澄法親王の命により、衆徒は坊号を院号に改める。 2月21日、鉢石町の大火で37戸が焼失。 |
1679(延宝7)年 | 9月7日、東照宮の修理が成り、正遷宮。 |
1680(延宝8)年 | 1月25日、松原町の大火で38戸が焼失。 |
1682(天和2)年 | 3月、社家中の争論により5家追放。 日光神領の飢饉。 |
1683(天和3)年 | 5月2日、定番・梶定良が2000石に加増される。 5月17日、日光山大地震(閏5月1日まで435回の地震)。 6月25日、稲荷川と大谷川の洪水で神橋辺に水が上がる。 9月1日、大地震。 11月7日、地震によって損壊した日光山の修復が成り、正遷宮に造替。 |
1684(貞享元)年 | 12月13日、鉢石町から出火し、93軒が焼失。 12月20日、蓮華石町から出火し、山内と民家668軒を焼失。 12月、日光火の番が千人頭1人、2組100人に復帰。 |
1685(貞享2)年 | 1月2日、類焼者に幕府が米7660俵与える。 6月11日、徳川綱吉が神領の判物を下す。 |
1686(貞享3)年 | 6月25日、幕府が大谷川の水除普請。 |
1688(元禄元)年 | 鉢石町の植山正利が「日光山之御絵図」を刊行。 |
1689(元禄2)年 | 4月1日、松尾芭蕉が門弟・曽良を従えて日光に着く。 9月、東照宮本殿の亀腹石を長畑より切り出す。 |
1690(元禄3)年 | 6月25日、東照宮の正遷宮。 7月4日、大猷院廟奥院の正遷座。 |
1691(元禄4)年 | 7月、龍光院天祐が「日光山堂社建立記」を著す。 |
1693(元禄6)年 | 5月24日、旱魃で雨乞い。 |
1695(元禄8)年 | 4月、新宮宮殿と本社拝殿の修復が成り、本坊を修繕する。 10月16日、公海が没。 |
1696(元禄9)年 | 8月、日光神領26ヶ村の困窮につき、幕府が30日間、米を施行。 |
1698(元禄11)年 | 5月14日、梶定良が没。 6月4日、日光駐在の目付を2名に増員。 10月27日、日光山の諸給人に、困窮対策として、朝夕、粥食をするように触れが出る。 |
1699(元禄12)年 | 7月1日、洪水で神橋辺に水が上がる。 10月、一坊を除く学頭以下、6院、衆徒、社家、楽人らに拝借金が下付される。大谷川・稲荷川河原の普請が完成。 日光山の困窮のため、100石につき金20両の配当を改め、四ツ物成で半分は米で下されたき旨の請願。 |
1700(元禄13)年 | 1月、神領の農村29ヶ村が夫食拝借金の下付を願う。 4月、大猷院50回法会。 8月28日、日光奉行が設置され、日光目付は廃止。 9月11日、徳川綱吉が日光山法度を下す。 9月、宇都宮6ヶ村が新神領として足治され、神領の村高が固定する。 |
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更新日:2024年02月01日