旧日光市歴史年表(江戸2)
西暦/年号 | 旧日光市の歴史 |
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1701(元禄14)年 | 8月7日、日光奉行屋敷が新築される。 9月3日、幕府が日光領目録を下す。 9月、日光街道・鉢石宿の困窮(御朱印伝馬5匹・同人足8人、侍伝馬5匹・同人足5人を常備)。 二荒山神社中宮祠本殿の造営。 幕府が日光山に対して御供料193両余を加増。 幕府が日光山の困窮対策として100石につき金28両の配当を定める。 |
1704(宝永元)年 | 6月30日、大谷川の洪水で仮橋が流失。 |
1706(宝永3)年 | 8月、八王子千人同心が江戸・千住・宇都宮経由で日光へ赴く。 京都の楽人が日光に東遊舞を伝える。 |
1710(宝永7)年 | 鉢石町と御幸町との間で旅宿営業についての論争が起こる。 |
1711(正徳元)年 | 輪王寺宮公弁法親王が日光八景を選ぶ。 |
1713(正徳3)年 | 5月、伊達吉村が「日光山紀行」を書く。 9月4日、東照宮の修理が成り、正遷宮。 |
1714(正徳4)年 | 貝原益軒が「日光名勝記」を刊行。 |
1715(正徳5)年 | 4月17日、東照宮100回神忌。 |
1717(享保2)年 | 8月26日、幕府が日光山の小給者に対し、救い米を与える。 |
1718(享保3)年 | 4月8日、中禅寺菖蒲ヶ浜で大野火。 10月、八王子千人同心が、再び、拝島・松山・佐野経由で日光へ赴く。 |
1720(享保5)年 | 9月4日、大谷川・竹ヶ鼻川の川除普請が完成。 |
1721(享保6)年 | 閏7月20日、所野村の水害。 |
1723(享保8)年 | 8月10日、大谷川・稲荷川の洪水。 日光奉行所が鉢石宿に対して永拝借金貸付を行なう。 |
1724(享保9)年 | 2月4日、修学院が焼失。 2月12日、稲荷町の大火で61戸が焼失。 |
1726(享保11)年 | 堂者の止宿について旧制を確認するとともに、松原町筋違橋以遠での堂者引きを禁止。 |
1728(享保13)年 | 2月、御幸町の鷹橋義武が「日光山名跡誌」を刊行。 4月17日、徳川吉宗が日光社参。 |
1729(享保14)年 | 9月、興雲律院が建立される。 日光神領において朝鮮人参栽培の試作。 |
1731(享保16)年 | 12月、日光山の修復が成り、正遷宮・正遷座。 |
1733(享保18)年 | 11月、再度、松原町筋違橋以遠で堂者引きの禁止。 |
1734(享保19)年 | 1月16日、日光奉行に2000石の足高を定める。 |
1736(元文元)年 | 8月、徳川吉宗が黒印の定めを下す。 |
1737(元文2)年 | 幕府が久次良村において鋳銭。 |
1738(元文3)年 | 久次良村のゑつら山入会地について、清滝村との争論が起こる。 8月24日、幕府が療病院栽培の朝鮮人参の実を買い上げる。 |
1740(元文5)年 | 5月21日、神橋の修復が成り、正遷宮。 11月14日、日光で朝鮮人参50根を東照宮に献上。 日光奉行所が勘定所取扱金の一部貸付を開始。 船禅頂が再興され、開闢出船日を6月11日に改める。 |
1742(寛保2)年 | 2月21日、板挽町からの出火で西町中が大火となり288戸が焼失。 4月、幕府が大火の罹災者に米800俵を給する。 |
1743(寛保3)年 | 4月21日、中禅寺の大野火で、中禅寺権現の神体宝物が湖上に避難。 |
1744(延享元)年 | 9月6日、東照宮、大猷院廟、本坊の修復が成り、正遷宮。 |
1745(延享2)年 | 10月20日、龍光院が焼失。 |
1746(延享3)年 | 幕府が日光奉行の職掌について定める。 |
1748(寛延元)年 | 西町の曲物職人96人が仲間の作法について申し合わせる。 |
1750(寛延3)年 | 4月、大猷院100回法会。 |
1753(宝暦3)年 | 5月27日、東照宮の修復が成り、正遷宮。 9月、教城院天全が「旧記」(日光山編年録)を編纂。 12月27日、神橋・仮橋の架け替え。 幕府役人が朝鮮種人参を見分、出役費用が町割から人参作人の負担となる。幕府が初めて日光神領の今市町より人参根を買い上げ、以後、人参作人を御用作人として保護。 |
1754(宝暦4)年 | 閏2月21日、西町が全焼。 11月15日、本坊の修理が成る。 |
1755(宝暦5)年 | 3月10日、地震により、東照宮奥院が崩壊。 |
1756(宝暦6)年 | 4月16日、衆徒仲間の困窮対策として大名宿宿坊制を願い出るが却下。 6月、幕府が、大名家の家督相続に際して、東照宮へ献上物を命ずる。 |
1757(宝暦7)年 | 4月3日、石屋町と松原町の大火で64戸が焼失。 |
1761(宝暦11)年 | 11月、大風により諸堂社に被害。 |
1763(宝暦13)年 | 10月、俳人・大島蓼太が日光を訪れる。 |
1764(明和元)年 | 2月14日、稲荷町が焼失。 5月22日、日光山の修復が成り、東照宮が正遷宮。 例幣使街道が幕府の道中奉行の管轄となる。 |
1765(明和2)年 | 4月17日、東照宮150回神忌。 |
1767(明和4)年 | 5月、西町曲物職人仲間が新規加入の認可などについて申し合わせ、問屋4軒と製品の売捌方などについての約定を取り交わす。 |
1770(明和7)年 | 2月、稲荷町の町代が町内困窮(56軒中12軒が病人・後家)につき、拝借金を願い出る。 |
1772(安永元)年 | 2月30日、神橋の修復が成る。 |
1775(安永4)年 | 湯殿山の常夜燈が行人講によって奉納される。 |
1776(安永5)年 | 4月17日、徳川家治が日光社参。 |
1778(安永7)年 | 5月10日、町民らが日光山作事大工肝煎の旅宿を打ち壊す。 5月25日、幕府が打ちこわしの頭取19人を江戸に送る。 |
1779(安永8)年 | 11月13日、日光山の諸堂社の修復が成り、正遷宮・正遷座。 |
1782(天明2)年 | 8月、目代役所が神領の農村に村方取り締まり条例を公布。 |
1783(天明3)年 | 12月、神領の4宿・60ヶ村より、飢饉についての夫食下付と救済の願いが幕府に出される。 |
1784(天明4 | 2月、神領村々救済暫定措置として、本坊・目代役所より総額200両が下付。 3月、細尾村で大火。 |
1785(天明5)年 | 小佐越村が以後7ヵ年間の炭焼稼を願い出る。百姓持林の伐木と、筏川流しによる売木の開始。 |
1786(天明6)年 | 2月9日、南谷本月坊より出火し、南谷と西町が大火。日光奉行屋敷と目代屋敷も類焼。 4月、幕府が罹災者に米1089俵を与える。 |
1788(天明8)年 | 1月、日光新御領の百姓が年貢減免を要求。 12月9日、大猷院廟の二天門の修復が成る。 |
1789(寛政元)年 | 1月5日、鉢石宿が御幸町の旅宿営業禁止を目代役所に訴える。 |
1790(寛政2)年 | 1月、日光奉行の在勤を1年交代に改める。 11月19日、稲荷町・大横町で大火。 12月、朝鮮種人参の勝手作と自由販売を許可。 新御領が10ヶ村に増加。 |
1791(寛政3)年 | 1月、幕府が旗本に日光参詣を奨励。 4月8日、日光火の番を千人頭1人、1組50人として半年交代に改正。八王子出立を6月21日と12月21日とする。 6月、日光目代・山口新左衛門信輔が罷免される。寛政御改正。 11月15日、徳川家斉が日光奉行の職掌を改める。 12月、神領が日光奉行の支配となる。本坊貸付金を上野寛永寺貸付金への加金とする。 |
1792(寛政4)年 | 2月6日、新御領と代地塩野村上知が代官所の支配となる。 8月、社家の任官。 |
1793(寛政5)年 | 9月、朝鮮種人参の増産計画が江戸の薬種問屋・近江屋茂兵衛から提出され、小来川村の文右衛門ら10人が朝鮮種人参再立作人に選ばれる。この時、遼東人参の預作も開始。 11月、日光火の番の八王子出立を5月25日と11月25日に変更。 |
1795(寛政7)年 | 料物金の大名貸を開始。 |
1797(寛政9)年 | 7月、男体山禅頂奉納録定式の改制。 |
1798(寛政10)年 | 4月6日、日光奉行所が鉢石宿と御幸町との旅宿営業をめぐる紛争を調停し、従来のとおり、くじ取りで堂者を止宿させる。 5月、東照宮と大猷院廟の修理が成り、正遷宮・正遷座。 |
1799(寛政11)年 | 8月、松浦静山が「日光道之記」を書く。 9月、朝鮮種人参御用作地と御用作人株が成立。 |
1800(寛政12 | 4月、大猷院150回法会。 7月18日、三社の修理が完成し、正遷宮。 9月28日、本坊の修復が成る。 |
1801(享和元)年 | 9月、老中・松平信明が河内郡塩野室村に苗木15万株を栽培し、東照宮と大猷院廟に寄進。 寛永寺貸付金への加金利息を引き下げ、日光山より直接、大名へ貸し出される。 |
1803(享和3)年 | 3月、野州産人参が幕府買い上げとなる。 |
1804(文化元)年 | 11月27日、日光の俳人・呼吸庵迦山(楽人・関出雲介)が没。 |
1805(文化2)年 | 6月、関東取締出役の設置により、神領の筏川流しの川筋取り締まりを強化。 |
1809(文化6)年 | 幕府の医師・多紀安長が「日光駅程見聞雑記」を刊行。 旗本某が「日光拝礼旅行日記」を書く。 |
1812(文化9)年 | 12月30日、大楽院から出火し、宝蔵に延焼して神宝や刀剣多数を焼失。大楽院亮空が罷免され、唯教坊信静が追放される。 府庫元・本坊貸付金の仕法替え。 |
1813(文化10 | 幕府が日光山に富興行を許可。 医王院覚淳が羽黒山別当となる。 |
1814(文化11)年 | 5月7日、東照宮の修復が成り、正遷宮。 |
1815(文化12)年 | 4月、東照宮200回神忌。 10月16日、五重塔が全焼。 東照宮神忌に際し、街道宿駅の人馬に増賃銭支給するため、以後5ヵ年、関八州に国役金を賦課。 |
1816(文化13)年 | 3月13日、大工町と板挽町で大火。 |
1818(文政元)年 | 9月19日、五重塔の再建供養。 |
1819(文政2)年 | 8月17日、大猷院の修復が成り、正遷座。 |
1820(文政3)年 | 8月27日、日光奉行が「馬士引」「引礼」などによる堂者引きを禁止。 旗本への一坊永続手当金貸付を中止。 |
1822(文政5)年 | 4月27日、日光山の衆議により、無尽類の取り扱いを禁止。 |
1824(文政7)年 | 3月、八王子千人同心の植田孟縉が「日光山志」(10冊)を著して幕府へ献上。 6月7日、神橋の架け替えと深砂王社の修復が成り、正遷座。 |
1825(文政8)年 | 2月、西町で各町の弥生祭の屋台番と狂言番の年次を再確認。 |
1828(文政11)年 | 3月2日、弥生祭の「ごた」がきっかけとなって、東町の若い衆が西町へ押しこもうとする。 富救方貸付仕法が停止。 |
1829(文政12)年 | 例幣使・堀河親実の従者某が「日光御参向御道中雑記」を書く。 海保漁村が「日光紀遊」を書く。 |
1832(天保3)年 | 5月7日、東照宮・本坊等の修復が成り、正遷宮。 |
1834(天保5)年 | 日光火の番・山本篤敬が浄光寺に防火隊碑を建立。 |
1836(天保7)年 | 南谷中から他坊の弟子を無住の坊の住職にとの願いが出る。 |
1837(天保8)年 | 植田孟縉が「日光山志」を刊行。 |
1841(天保12)年 | 1月1日、幕府が神領の改革を指令。 |
1842(天保13)年 | 1月11日、老中・水野忠邦が日光普請御用のため、日光へ赴き、日光奉行に対して、日光表の地役人の風紀粛清と、大猷院廟、大楽院、養源院への取り締まりを命ずる。 6月18日、日光で町触により、株仲間の解散を命ぜられる。 6月、日光奉行より、翌年の将軍社参を控えて日光表取り締まり改革の書付が出される。 8月17日、大猷院廟の修復が成り、正遷座。 8月、水野忠邦が日光普請検分のため、日光へ赴く。 10月、幕府が庶民の日光参詣を従来どおりとする(前年9月から本年9月までの参詣の庶民は35,000人)。 東西町人別2,600人余。 |
1843(天保14)年 | 4月17日、徳川家慶が日光社参(将軍による最後の社参)。 12月14日、植田孟縉が没。 |
1844(弘化元)年 | 3月、倹約のために弥生祭の狂言が禁止されたので、代わりに「ねり」を演じる。 7月、二宮尊徳が日光神領の荒地開拓調査を始める。野州一国が再び朝鮮種人参御用作地に指定。下大工町で屋台を新調(費用97両)。 |
1845(弘化2)年 | 3月1日、中本町で弥生祭狂言に忠臣蔵を演じるため、江戸と上州の藤岡から芸人を依頼したことが発覚し、奉行所から叱責される。 5月、二宮尊徳が日光神領の復興仕法書を幕府に提出。天保13年以降の新規勝手作人参を御用作人並みの扱いとし、以後は勝手蒔付が禁止される。 |
1847(弘化4)年 | 2月28日、弥生祭の「ごた」が原因で、西町の鎮守廻りが翌日に日延べとなる。 以後、3ヵ年間に限り、1人1000粒ずつの朝鮮種人参の勝手蒔付が許可される。 |
1849(嘉永2)年 | 9月、山久保・小来川両村の新規参作人が、小来川村の世話役人に対して朝鮮種人参の永作薪付を願い出て不許可となる。以後、3年ごとに人参実蒔付期間を延長。 |
1850(嘉永3)年 | 4月、大猷院200回法会。 御納戸貸付金貸付額が増加。 会津南山の仲附稼人と今市宿との紛争が起きる。 |
1851(嘉永4)年 | 4月13日、東照宮・本坊の修復が成り、正遷宮。 5月、上州安中藩主・板倉勝明が「遊中禅寺記」を刊行。 問屋再興により、問屋経営の人参販売経路が再編され、高野将監が納戸役に就任。新御手許金の設立。 |
1853(嘉永6)年 | 2月、二宮尊徳が日光奉行手付となり、仕法を開始。 3月、彦根藩主・井伊直弼が日光社参。 |
1854(安政元)年 | 6月、神領産出の農産加工品の販売につき、産物御用達と江戸産物取扱所引受人との間に規定書が取り交わされる。 報徳金の貸付が開始。 下大工町で「若者組」の規定を更新《以後、1950(昭和25)年まで使用》。 |
1856(安政3)年 | 高野将監宅で最初の無尽が開催される。 |
1857(安政4 | 9月、日光納戸役所の改革で、高野将監の仕法が注視される。 11月21日、日光の金工・神山致道が没。 |
1858(安政5)年 | 12月、高野将監が納戸役御免開門(翌年に隠居)。 御納戸貸付金の利率が引下げられる。 |
1860(万延元)年 | 2月23日、宇都宮藩家老が日光山の警衛について伺書を幕府に提出。 2月、東西両町が弥生祭の手順と「ごた」の自粛申し合わせを再確認する。 TT>閏3月28日、宇都宮藩に日光警衛が命じられる。 5月1日、日光の警衛方法が決定。 8月26日、日光学問所(修道館)の創立。 |
1862(文久2)年 | 1月25日、東町指物職人と西町曲物職人らが、原料払底につき、栗山郷の伐木と日光以外への搬出禁止を奉行所に願い出る。 7月6日、日光奉行が1人半年交代制となる。 中禅寺の三重塔、護摩堂、上供所、別所が焼失。 日光山一坊永続手当金貸付仕法が完成。 |
1863(文久3)年 | 4月13日、日光学問所が開講。 5月16日、宇都宮藩が日光警衛の任を解かれる。 9月、東照宮と大猷院廟の修復が成り、正遷宮。 今市近郷に漆を植栽。 鉢石町に御岳社が建立される。 |
1864(元治元)年 | 4月9日、天狗党が筑波山を下り、宇都宮を経て、東照宮に参詣。 4月18日~7月10日、幕府兵が日光に駐屯。 6月14日、学問所に剣術道場を開く。 11月14日、天狗党の接近に備え、日光の警備が強化される。 |
1865(慶応元)年 | 4月17日、東照宮250回神忌。 大名諸家からの願いにより貸付利率が引き下げられる。 |
1867(慶応3)年 | 2月17日、板挽町と大工町で大火。 5月24日、公現法親王が輪王寺門跡となる。 7月19日、神領を真岡代官所へ支配替えにする旨の通達がある。 9月2日、神領と大猷院廟の代官所への支配替えの内意が達せられる。 9月8日、神領と足尾郷の73ヶ村61名の代表が支配替えの中止を求める願書を差し出す。 9月18日9月22日、支配替え騒動が起こる。 9月、日光奉行の役高・役料を廃し、役金1500両に改める。 10月27日、幕府は神領の支配替えを撤回。 |
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更新日:2024年02月01日