日光火之番~八王子千人同心~

八王子千人同心の成り立ち

日光山内表参道付近にある千人同心碑(2024年1月撮影)

日光山内表参道付近にある千人同心碑(2024年1月撮影)

 近世初頭から幕末に至るまで、武蔵野国多摩郡八王子を中心に居住していた郷士集団が、「八王子千人同心」(以下「千人同心」と略称する)である。

この千人同心は、日常的には農業を営み、一般の農民と同じように年貢を納入しているのであるが、同時に、幕府から扶持米・切米を給付され、時には武士としての「役」を担う存在でもあった。つまり、武士と農民が身分的に区別される、いわゆる「兵農分離」の社会にあって、武士と農民の双方に身をおかなければならなかったのである。こうした半士半農の階層は、一般に「郷士」と呼ばれている。江戸時代には、各地で種々の郷士の存在が確認されているが、村の中に住んでいながら、時によって武士となる集団は珍しい。こうした郷士はまさに典型的なもので、その意味からこの千人同心という集団が注目されてきた。

千人同心の組織

千人同心の組織は、「千人頭ー組頭ー平同心」という形で編成されていた。

千人頭は旗本身分で、10名いたが、そのうち8名が知行取りで、2名が蔵米取りであった。その職務は月番制で、千人頭は毎月交代で「組頭」や「平同心」からの願書や届書の処理にあたっていたようである。千人頭はそれぞれ「組頭」と「平同心」を配下に持っていたわけだが、千人頭の苗字をとって、「原組」「窪田組」「河野組」などと呼称されていた。

組頭は、各組に10名ずつおかれ、幕府から俸禄として蔵米(切米)と扶持米が支給されている。組頭たちは、役宅とされている月番担当の千人頭の屋敷に在番し、上意・下達文書の授受と江戸・日光への書状などの送受信、さらにはそうした内容を廻状として他の千人頭へ通知することなどを、業務としていた。

平同心のうち100名は、組頭の従者としての任務を帯びている持添抱同心で、800名がいわゆる平同心であった。したがって、千人同心の組織は千人頭を含めると合計1010名の集団だったのである。(2003年9月 八王子郷土資料館 ブックレット千人のさむらいたち~八王子千人同心~から引用)

日光勤番

千人同心たちは、公務にあたるときだけ、武士としての身分を得ていた。それでは、その公務とはいったいどのようなものだったのであろうか。

千人同心の公務の代表的なものが、日光勤番である。この職務は、開幕の祖である家康および家光を祀る日光山の防備であり、具体的には日光の防火役、すなわち火の番であった。千人同心が、この日光火の番を命じられたのは慶安5年(1652)のことで、これ以降、幕末にいたるまで任務は続けられている。

日光勤番は、千人頭2名とそれぞれの頭が指揮する組の同心50名ずつ、すなわち合わせて100名で構成されていた。そして、このなかには各組5名ずつ合計10名の組頭が含まれており、50日をひとつの期間として、その10組が交代で勤番を勤めたのであった。

しかしながら、このシステムは寛文12年(1672)に一時改正され、千人頭1名と同心50名での勤務に人員が削減されることとなった。しかし、107年を経た寛政3年(1791)4月、老中松平定信の命により、日光火の番は千人頭1名と同心1組50名で勤め、期間は半年交代とされた。この改正は、いうまでもなく幕府の寛政の改革の一環として行われたものであり、その後、幕府が崩壊する慶応4年(1868)まで変更されることはなかった。

さて、この日光勤番の実態とはいかなるものだったのであろうか。それを知ることができる格好の史料が「日光火消御役宅年中行事」である。これによれば、八王子を出発する準備が、一ヵ月前から始まっていることがわかる。勤番への出番者が決定され、その姓名が月番の千人頭を通じて鎗奉行に報告される。そして、道中で使用する「朱印」「証文」類の申請がなされ、それが下賜された後、出番の同心たちとの打ち合わせが行われ、同心たちは誓詞を提出するのである。そしていよいよ出発となる。

八王子から日光への経路は、当初江戸に向かい千住を通って宇都宮経由で日光に入るものであったが、承応元年(1652)からは江戸へは向かわず、八王子から拝島へ入り、松山(現・埼玉県東松山市)・佐野(現・栃木県佐野市)を経て日光へといたる経路になった(図6参照)宝永3年(1706)8月に江戸経由へ戻されたが、享保3年(1718)閏10月には、再び松山・佐野経由の道筋に戻されている。この全行程は39里30丁(約156キロメートル)で、行きも帰りも21継ぎ、3泊4日の道のりであった。(2003年9月 八王子郷土資料館 ブックレット千人のさむらいたち~八王子千人同心~から引用)

火の番屋敷

火之番屋敷(『日光山志』より引用)

日光住環の件路

図6 日光往環の経路(八王子郷土資料館作成)

今市での火の番役扶持を受け取ると、千人同心たちは日光へはいる。日光では町宿に止宿し、すぐに荷を解き出勤体制をとったようである。到着側の組頭5名は御役宅本陣へ挨拶をし、千人頭への到着報告を行う。そして伝馬証文を返上した。翌朝、千人同心は火事羽織を着けて役所へ行き、櫓・門の交代をし、火事道具や小屋遣道具目録・日記帳を受け取った。こうして、日光勤番が始まるのである。

平日の見廻りは、朝四ツ時と夕八ツ時の2回行われた。千人頭は継裃を着け、組頭1名は丸羽織・裾細、平同心4名が頭紋付・役羽織で各人が鳶口を持っていた。臨時の見廻りは、強風と地震の時のもので、強風の場合は昼夜に限らず山内を見廻った。そのほかには、毎月1度ずつの滝之尾の見廻りと町廻りが行われたのである。

実際に火災が起こった場合には、板木と鐘によって警報が発せられ、同心たちが出動した。火災は「日光火消御役宅年中行事」によれば、天明2年(1782)から天保9年(1838)の間に、25回も起こっている。消火活動が終わると、千人頭は鎗奉行と日光奉行に一通ずつ注進状を届けた。そして、日光奉行からは老中への注進状の写しを受け取ることになっていたようである。

ところで、勤番生活では定期的に休暇が与えられており、警備の任務が毎日あったわけではない。非番の時には、朝四ツ時から暮七ツ時まで、自由な時間が与えられた。しかしながら、勤番の仕事自体はそれほど軽いものではなかったようで、火の番の交代の際にはそれを忌避したためか、八王子を出立する日の遅れが頻繁に生じている。代番という、当番に当たっている同心が、仲間の同心と交代することもあったようで、文政年間には強い規制を行う旨が申し渡されている。

そして現在、八王子市と日光市は、この千人同心の日光勤番を機縁として姉妹都市交流を行っている。(2003年9月 八王子郷土資料館 ブックレット千人のさむらいたち~八王子千人同心~から引用)

馬町火之番屋敷略図

馬町火之番屋敷略図(東照宮所蔵資料より引用)

日光火之番火消し道具の画像

日光火之番火消し道具(八王子郷土資料館作成)

防火隊墓碑 (日光市指定文化財)~浄光寺~

浄光寺に残る火之番合同墓碑

浄光寺に残る火之番合同墓碑

火之番合同墓碑
火之番合同墓碑の開設板

天保5年(1834)の秋、千人頭山本金右衛門は部下の助力を得て、日光板挽町(現匠等)浄光寺に防火隊碑を建てた。その碑銘は次の通りであるが、火之番創設以来、文化年間までの160余年間に、日光で客死するもの数十名に上ったといわれ、文化11年(1814)在勤の頭原半左衛門はそれ等の墳墓を合葬して弔った。半左衛門はこれよりさき、墓命によりおおよそ10年間蝦夷地にあって、北辺の守備開拓に当たったのだが、そうした彼の経歴が、異郷に客死した人々を弔わせたのかもしれない。

立石給費姓名

  • 山本良助安徴
  • 小池五郎助忠義
  • 河西伊三郎愛貴
  • 新野祐平嘉致
  • 山本与兵衛安英

(「日光防火小史」柴田豊久 昭和53年6月から引用)

日光山を戦火から守った千人頭 ~石坂弥次右衛門~

千人頭 石坂弥次右衛門の写真

千人頭 石坂弥次右衛門(左から2人目、写真は石坂圭司氏所蔵)

八王子千人同心の日光勤番史上、あわれをとどめたのは、最後の勤番頭 石坂弥次右衛門(諱義礼)の死である。戊辰戦争のさ中、慶応4年(明治元年 1868)3月15日 日光在勤中に病死した千人頭荻原頼母(諱友親)の代番として、その後事を処理するために同2月15日急遽八王子を出立し、同月18日日光到着して非常警備の任に着いたのであるが、閏4月1日官軍の日光山侵入によって、大勢はもはや如何ともしがたく、同心を率いて八王子へ帰った。しかし、一戦も交えずして日光山を明渡したことに対する周囲の問責の声にたえかねて、同月10日、老父桓兵衛の前に、ついに自刃して果てたのである。

当時の日光は、宇都宮の戦闘で敗れた旧幕府の脱兵2千が拠り、これを追う官軍とまさに一触即発の危急にあった。しかし東照宮の大前に決戦を心に誓った大鳥圭介等がにわかに会津へ退いて事態が無事に収拾されるまでには、東照宮の保全を思慮した官軍の将校板垣退助や地元有司との間に、簡単に述べ得ぬ経緯がある。官軍に幕僚として加わっていた谷干城はその手記の中で、閏4月1日神橋畔に官軍を出迎えた日光奉行の下僚や、僧徒等とともに、さきに八王子で一たん帰順面謁した「千人組頭某」がいて、いろいろと事情を述べたと記している。この某が石坂氏であるかもしれない。弥次右衛門は、当年還暦の分別で、以前長州征伐に従軍しており、緊迫した政局にも通じていたと思われるが、時代変革の波濤がついにここに及び、己が幕臣としての栄誉も、父祖代々東照宮警備の栄光も、もはやむなしく崩れ去ったいま、心に決するものがあったのであろう。氏は日光火之番頭として、日光山を戦火から避けた有司の1人ではあるが、わずか40日の在勤にその渦中に立たされ、天寿を全うすることができなかったことはまことに不運の人である、と八王子史は述べている。氏のお墓はいま、八王子千人町1丁目の興岳寺(石坂家開基)にひっそりと立っている。(「日光防火小史」柴田豊久 昭和53年6月から引用)

参考資料

江戸中期日光山内図

江戸中期日光山内図 (日光消防組資料 山本忠一郎 昭和53年5月)より引用

日光入口東町風景

日光入口東町風景(「日光山志」より引用)

引用・参考文献

  • ブックレット 千人のさむらいたち ~八王子千人同心~ 八王子市郷土資料館2003年3月31日
  • 日光消防組資料 山本忠一郎 著 1978年6月1日
  • 日光防火小史 柴田豊久 著 1978年6月1日
  • 近世からの日光市災害史年表 篠田英夫 著 2011年10月1日
  • 日光山志

 

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