旧足尾町の歴史

旧・足尾町の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです。1610年(慶長15年)に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。

その後一時の衰退をみますが、1877年(明治10年)、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890年代(明治20年代)には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、当時の人口は宇都宮市に次ぐ38428人(1916年大正5年)で県下第2位。

しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48年)2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。

舗装がまだされていない道路と並行して線路があり、その上をバスのような見た目で運転席と乗車席が連結され、ドアや窓から乗客が身を乗り出しているガソリン気動車のモノクロ写真

1920年代(大正時代)から走り始めたガソリン軌道車

歴史上の人物

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)

着物を着用した短髪で少し笑みを浮かべている古河市兵衛のモノクロ写真

天保3年(1832年)京都岡崎の造り酒屋の二男として生まれた市兵衛は、生家の事業不振のため11歳のころからでっち奉公や行商に出されていました。18歳の秋、商人を志し伯父を頼って盛岡へ赴きました。

27歳の時、京都井筒屋小野店の古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名しました。ここで商才を発揮し、生糸輸出に手腕を振った市兵衛はその功績が認められ、明治2年に井筒本家から分家が許されました。

その後さらに生糸貿易で活躍し、岡田平蔵とともに鉱山経営に乗り出しましたが、明治7年突然の主家の破産により独立しました。その後の生糸取引の失敗で鉱山専業を決意しました。

明治10年、志賀直道を説いて半額の出費を得た市兵衛は当時不振が続いていた足尾銅山を48,380円で買い取り、陸奥宗光の協力や渋沢栄一の資金援助を受けて開発にあたりました。

明治14年の鷹の巣直利、16年の備前楯直下の大直利の発見は、足尾銅山発展の基礎を築きました。その後、新技術の導入、銅山の電気・近代化を図り、明治20年には日本の全銅産出量の40%を占めるまでになり、市兵衛は日本の銅山王の地位を得たのです。その反面、大規模な開発は足尾鉱毒事件を引き起こしてしまいました。

明治36年、市兵衛は72年の生涯に幕を閉じました。

田中正造(たなかしょうぞう)

着物を着用し、口の周りに長い髭が生え額と頬に深いしわがある田中正造のモノクロ写真

正造は天保12年(1841年)安蘇郡小中村(現在の佐野市)の名主の長男として生まれました。

17歳で名主となり、領主六角家の悪政を強訴し続けた正造は、5年後に初志を貫くことができましたが、投獄追放されてしまいます。その後、留学を望み上京しましたが果せず、東北の江刺県へ赴いた正造は、この地で上司殺害の容疑で再び入獄。そこで政治学を学び、無罪となり帰郷した後、政治改良に専念することを決意します。

県会議員を経て明治23年第一回衆議院議員選挙で当選し第二回帝国議会で足尾銅山から流出する鉱山被害について政府に初めての質問書を提出しています。以後10年間にわたり鉱毒除外のために奮闘しますが、明治33年の川俣事件をきっかけに、自ら議員を辞職します。

明治34年には明治天皇への直訴を試みますが失敗します。この事件は世に大きな影響を与えましたが、政府による対策は谷中村に洪水予防の遊水池を設けるという見当違いのものでした。

この対策に反対した正造は、買収予定の谷中村へ移住し、村民とともに反対運動を展開しました。しかし、こうした努力も報われず、明治40年には移転を拒む16戸が県に強制破壊されてしまいます。

「何とて我らを」というキリストの言葉を日記に残して、大正2年旅先で倒れた正造は臨終の日詰めかけた人々に自然破壊を嘆いて檄を飛ばしたといいます。信念を貫き、農民とともに生きた波乱の人生でした。

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観光経済部足尾観光課足尾観光係
電話番号:0288-93-3116
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